第30話 山が怖い、村人の目が怖い、自分が怖い 🐚



 翌年三月、半年の東京暮らしに別れを告げた黒光は、迎えに来た愛蔵とともに俊子を連れ、いまだ零下十度近い朝もある山深い信濃の穂高へともどって行った。まさにうしろ髪を引かれる思いだったが、病気が治った以上は、いつまでも仮の宿に滞留するわけにいかない。田畑や養蚕に忙しくなる前にというのが義兄夫婦の希望だった。


 東京からはるばる嫁いで来た初日、すぐ眼前に立ち尽くす山並みの威容に怯えに近いものを感じた黒光だったが、あれから三年を経たいま、その圧迫は薄らぐどころか、むしろ重篤になっていることを認めないわけにいかない。どっしりと居座ってびくとも動かない重畳たる山々は旅の者(よそもの)を排除しようと牙を剥いて来る。


(タビノモンという言葉の冷たい響きはどうだろう。この土地の生まれ育ちでないというだけで、わたしは一生このゆえなき蔑みから逃れられないのだろうか。申してはなんだが無教養な田舎人ほど手に負えないものはない。地付きというだけで優越感に浸るわが身の愚かさを顧みようとする素養も気持ちを持ち合わせていないのだから)


 いくら尊大な山だって、わたしの心のなかまでは踏みこめまい。そう思っていたが甘かった。寝ても覚めても目の前に立ちふさがっている巨大なかたまりは、日々刻々の脅威となって、少しのきっかけさえあれば容易に病みたがる胸に忍び寄って来る。黒光にとって山=人の口であり目でもある。被害妄想を呼ぶ疑心暗鬼の黒い翳……。



      *



 にもかかわらず、黒光の身体はまたしても異変を告げていた。第二子の妊娠に喜びよりも憂うつが勝ったのは、物心がつき始めた俊子のしつけをめぐって、義兄夫婦と日常的な軋轢が生まれていたからで……。とにかく猫かわいがりすればいいと思っている祖父母といけないことはいけないときちんと教えたい両親では立場が異なる。


 目に見えない衝突は日常茶飯事だったが、最大の危機を感じたのは俊子がマッチあそびを覚えたことだった。咎めるどころか一緒に面白がっている義兄夫婦に困惑しているとき、俊子を洋間に連れて行った愛蔵が軸を手に押しつけてその痛さを教えた。だが、泣き声で駆けつけて来た義兄夫婦に愛蔵がひどく叱られるありさまだった。


 以来、義兄夫婦の視線に棘が混じるようになったのは「気持ちのやさしい愛蔵が、自らあんなことをするはずがない。明治女学校出のきつい嫁の指図にちがいない」ということになったからだろうと黒光はまた疑心暗鬼に駆られた。その証拠になにかにつけ「かかさがおっかねえぞ」聞こえよがしに俊子に言うようになったではないか。


(義兄さんも義姉さんもずるい。都合のわるいことはなんでもわたしのせいにして、美味しい上澄みだけ持って行ってしまう。ことわざにも「年寄りっ子は三文安い」というとおり、世の祖父母は孫に甘いと相場が決まっているようだが、相馬家の場合、本当の祖父母でない事実を補おうとする余分な力が働いているのがかえって面倒だ)


 嫁を悪者にするつもりはなかったのかも知れないが、結果的にそうなっていたし、だれも味方がいないところへひとりで乗りこんで来た嫁の心細さや孤独に、もう少し配慮する気づかいがあったら、どんなにか救われる思いもするし感謝もするだろうに……ひとつ屋根の下で、黒光はしだいに追い詰められてゆく自分を見ていた。



      *



 明治三十三年十一月二十六日、二十五歳の黒光は、相馬家待望の男子を出産する。理想的な一姫二太郎を義兄夫婦をはじめ使用人や隣近所もみんなで祝福してくれた。名前を安雄としたのは、安兵衛と甚兵衛を交互に名乗る順番からと、新時代に合わせ黒光の祖父・星雄記の雄も組み合わせたからで、愛蔵の後継がこのとき決まった。


 安雄はいつも機嫌のいい赤ん坊で、だれにもにこにこ愛想がよかったので周囲から愛された。とりわけ義姉は「この子はまあ、なんという好い男ずらいなあ」手放しの孫息子自慢を隠そうともしない。かたや義兄は相変わらずの俊子派で、智慧がついて来た孫娘の相手を飽かずにして、この村に伝わる昔話を語ってやることもあった。


(こういうときは本当にありがたいし、いい義兄さまだと心から感謝の念が湧いて来るのだけど、世間一般の嫁いびりとはいささか異なるベクトルでの圧迫がわたしを辛い気持ちにさせること、どのくらい理解してくださっているのだろうか。人徳を讃えられる方とはいえ、所詮は狭い田舎の枠のなかのこと、東京とは土台から……)


 二児の親になったいまなお東京への未練を断ちきれない自分が疎ましいやら申し訳ないやらの黒光だったが、この時点ではまだ自分の努力しだいでなんとかなる、日にち薬ともいうし、なにも見なかったこと、聞かなかったことにしてやり過ごしていれば、そのうちに、ここの暮らしにも慣れて、田舎の女衆になれると思っていた。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る