第23話 南安曇基督教青年会&東穂高禁酒会の発足 🧩



 七月に入ると、先進の養蚕知識や技術を学ぼうと、全国から若者が集まって来た。当時の農家の現金収入の道として、養蚕は欠かせないポジションを占めつつあった。そんな青年たちを無償(食費も)で世話することを義兄夫妻は無上のよろこびとしているようだったが、それというのも後継者の愛蔵の腰が据わったからだったろう。


 肚の太い安兵衛が人知れず悩んでいたのは、すぐ下の弟を分家に出したうえで、才を見こんだ末弟を養子に迎えたはいいが、その末弟が意外な風来坊体質だったこと。外部への憧れは始祖の安曇族の大むかしからつづくものではあったが、まさか東京の学校を了えた愛蔵がいきなり北海道へ飛んでファームを拓くと言い出すとは……。


 顔が青ざめるような驚愕と怒りをおさめ「なにもそんな遠いところの土を耕さなくても、土ならここにいくらでもあるだろう」と説くと、これまたあっさりと前言を翻して穂高へもどって来て、なんのこだわりもなく恬淡としているようすに、この男には大事な骨が一本欠けているのではないかな……ひそかに案じていたのだった。


 だが、世の中は分からない。どこでどう話が転じたのか、庄屋さの愛蔵さは東京の学校で学んではるか北海道で武者修業し、輸出産業の花形である養蚕をマスターして専門書まで著し、一躍人気作家になって帰郷したということになって若い衆の尊敬を集め、武家出身の嫁のために増設した相馬家の洋間は若者のサロンと化したのだ。


 

      *



 まず手始めに集まって来た村の若者たちに、愛蔵は父なる神・イエスさまの講話を行った。明治維新で国中が新しい時代の大波に洗われた当時、廃藩置県により職を奪われた武家だけでなく、百姓も町人もだれもが心の拠りどころを求めていた。そこへ侵入して来たのが中国伝来の仏教にあらず、西洋のキリスト教だったのだが……。


 学生時代に洗礼を受けた愛蔵が、持ち前の恬淡とした口調で宗教に無垢な農村青年たちに語りかけると、たちまち神秘の世界が出現したようで、熱心な青年は野良着のふところに聖書を入れて田畑へ出かけるようになる。耶蘇教に馴染めない大人たちは甚だしく当惑したが、庄屋の息子の活動を遠巻きに見守っているしかなかった。


 こうして発足させたのがまずは南安曇基督青年会で、つぎが東穂高禁酒会だった。穂高に限らず、そのころの農村では昼夜問わない飲酒による弊害が大きな社会問題になっていた。泥酔した男の引き起こす事件は家庭や地域社会を蝕み、経済を破壊し、いいことはひとつもないと説く愛蔵に賛同する十人が小学校で発会演説会を開いた。


 営業妨害だと憤る酒屋の妨害も当然あったが、そこは若さを武器にして乗りきり、論客で知られる木下尚江をはじめとする数人が順番に演壇にのぼり、百害あって一利なしと飲酒禁止を熱弁すると、百人を越す聴衆からやんやの喝采が沸いた。そこに自他ともに認める酒豪も混じっていたことが当初のお祭りムードの証しだったろう。



      *



 新妻のお良が紹介された夜の洋間は、芸妓置屋設置反対運動の話で盛り上がった。松本から相馬家へ来たとき人力車でたどったのが糸魚川街道で、その少し先の穂高宿にその名も狐小路という飲み屋街があるが、日清戦争特需を機に、そこに芸妓置屋をつくって地域経済の繁栄にさらなる弾みをつけようという話が持ち上がっていた。


 禁酒会では警察署長に反対の請願書を提出していたが、ほとぼりが冷めたころ再び設置願が出された。そのことを聞いた井口喜源治さは即座に相馬家の洋間で反対の請願書を認め警察へ届けたが、それをよしとせぬ酒屋勢力が「小学校教師の分際で」と騒ぎ出し、村びとを巻きこんで喜源治さ追放運動に発展しそうな雲行き……。


 寝室に引き取ってから愛蔵にそれまでのプロセスを聴いたお良は、何事にも飄々としているようで、安兵衛とはまた別のリーダーシップがある夫を見直す思いだった。

東京の豊壽叔母も禁酒運動の先頭に立っていたし、この水清らかな里に芸妓置屋設置なんてとんでもない。子どもたちの風紀上も芳しくないし、第一、生理的にいや。


(まったく世の中の男たちときたら、すきさえあれば鼻の下を伸ばそうとするんだから、いやらしいったらありゃしない。プラトニックの対極に位置する情欲を隠すふうもないとは、どういう神経をしているの。「自分は動物です」と公言しているようなものじゃないの、芸妓置屋の設置に賛成するなんて。おお、いやだ、ぞっとするわ)


「あなた、がんばってね」お良は夫に声援を送りながら、地味な印象の井口喜源治に思いを巡らせた。愛蔵によると、相馬家の白金耕地の近く、等々力耕地の裁縫師の息子で、一緒に松本中学に通った。代言人を志して東京の明治法律学校に進んだが、途中で家が貧窮したため帰郷し、いまは小学校の訓導をしているということだった。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る