第24話 畏敬する中島湘煙さんゆかりの俊子の誕生 🎡



 夏蚕が上簇するのを待っていたかのように、お良の体調に異変が生じた。朝、目覚めると天井がぐるぐるまわり頭痛が激しく、胃の腑からこみ上げて来るものがある。食べものにあたったのか、日ごろの疲れが出たのか(ろくに働いていないのに恐縮だが)愛蔵も心配して「いいいい、寝てろ寝てろ」言い置くと階下へ知らせに行く。


 すぐに安兵衛の大きな身体が、そのうしろに小柄な義姉が隠れるようにして土蔵の二階へ上がって来たので、お良は大事になったと青ざめたが、起きようとしても目がまわって枕から頭を持ち上げることが出来ない。へなへなした身体が自分のものではないように心もとなく、このまま臥せたらどうしようと、先のことまで気が揉めた。



      *



 やがて、異変を聞いた近所の女衆が「そりゃあ、あれずらい、ほれ、なんだよう」いたずらっぽく義姉に耳打ちしてくれたので病気ではなく悪阻であることが分かり、遅ればせながらの妊娠が本人にも家族にも了解された。愛蔵はもとより、義兄夫婦も思いがけないほど喜んでくれたので、お良は気分のわるさも忘れて、ほっとする。


 みんな気をつかってお良の前ではなにも言わないが、だれもが男子の誕生を望んでいることがひしひしと伝わって来る。それは新たなストレスだったが、こればかりはイエスさまの御心にお任せするしかない。餅菓子や杏の缶詰を枕元に並べたり、牛肉の缶詰と馬鈴薯を煮た土鍋を運んでくれたりする夫に素直に感謝するお良だった。


 仙台への里帰り出産は望むべくもなかったが、義兄夫婦には子どもがいないので、だれもお産の知識を持っていないのが、神経が高ぶりがちな妊婦の不安の種だった。東京から送られて来て溜っていた雑誌『國民之友』『女學雑誌』『文學界』を読む気にもなれず、育児書を取り寄せると、そこに書いてあることがまた新たな不安を呼ぶ。



      *



「ちょっと聞いたかね、庄屋の嫁さまは、はあ、本を読んでお産をするらしいじい」「さすが明治女学校出さね、同じ女衆でも、わしらとは人間の出来がちがうずらよ」

「そうは言ってもせ、本なんか読まずとも赤ん坊は自然に生まれて育つもんずらい」

「それな~、なんでも大げさ好きなお姫さんとわしらと、どっちがどうずらいのう」


 どこからどう伝わるものか、お良が育児書を読んでいるという話はたちまち村中にひろまった。そのうえ、愛蔵に頼んで、松本の呉服屋から襦袢数着分の晒し木綿、新生児の上着と下着用のイタリアネル、おしめカバー用の本ネルなどの贅沢品を整えたと聞いた女衆の口が油を足した歯車のように滑らかになったことは言うまでもない。


 夫婦の部屋に籠って丁寧な返し縫いで赤子のものを縫うお良に口さがないうわさは届かない……はずだったが「おしめは汚れるに決まっているのに、純白の布をつかうその神経が分からねえ」「浴衣のお古が布がやわらかくて最上だに、まんず金食い虫だじい」などの批判がだれからともなく聴こえて来るのは摩訶不思議な現象だった。


 細かいことを気にしない性質の愛蔵が珍しく「ここいらじゃ、おしめ蒲団というものを使っているそうだぞ。それをおしめと着物のあいだに挟んでおけば、そう頻繁におしめを替えなくて済むそうだ。こんぼこ(赤子)だって、そのほうがいいそうだ」遠慮がちな口ぶりで漏らしたことも、尖りがちなお良の神経をチクチクいたぶる。


(どおりで、こんぼこがいる家には強烈なアンモニア臭が充満しているわけだわね。そりゃあ母親の手は省けるかも知れないけど、肝心の赤ちゃんはどうなの? お尻が濡れたまま夜まで放っておかれるなんてかわいそう。それに、そういう状態に慣れると不衛生が当たり前な子に育つんじゃないかしら。おおいやだわ、ぞっとするわ)


 近所の目を慮りながらなにも言わない義兄夫婦の心中も気になるが、お良は自分の信念に基づく育児をしようと決意を新たにする。人の目ばかり気にしている母親をわが子に見せたくない、何事も最初が肝心で、釦のかけちがいはのちのちのトラブルのもとだから、譲れないところは一歩もゆずらず、むしろ先駆のつとめを果たしたい。



      *



 こうしてときが過ぎ、翌春の出産時にまたひと悶着があった。義姉が土蔵の奥からへんなものを引っ張り出して来た。当家に代々伝わる子持ち蒲団なるものだという。見るからに古めかしくて何代もの女の汗や血が沁みこんでいそうで気味がわるいし、長いこと太陽にも当てなかったらしく、その固さといったら、戸板のようだった。


(せっかくだけど、これはちょっとね……虐げられて来た女の歴史を突きつけられるようで気持ちが暗くなるわ。できれば使いたくないけど、そうもいかないのならせめてものクッションに、この下に藁蒲団を敷いてもらおう。そうすればお産のわたしも生まれて来る子もそこまで痛くないかも知れない。それにしても一事が万事……)



      *



 初産の産道はひろがるまでに時間がかかったようで、別棟に設けてもらった産室に入って一週間目にようやく赤ん坊が産ぶ声をあげる。取り上げた産婆のばあさんが「陣痛が弱くて大変だったが、よくがんばった」と褒めてくれた。ずっと付き添っていた愛蔵はぐったり疲れた顔を安堵に広げ、駆けつけた義兄夫婦も労わってくれた。


 明治三十一年五月一日、相馬愛蔵・お良の長女・俊子が誕生した。望まれた男子でなくても、お良は十分に満ち足りていた。畏敬する女権拡張運動家・中島湘煙さんの本名にちなむ命名に、夫も賛同してくれた。「むすめよ、成長して小さな炉辺の幸をぬすむな」産褥のお良はそばに眠る小さな分身に飽くことなく語りかけていた。


(志操高く才能に秀で、愛情ゆたかな女性になっておくれ。大きな世界に目を開いて正義の愛を貫き、意義ある仕事に一生を捧げる……そんな生き方こそ母は望みます。なんて、わたしったら自分が成し遂げられなかったことをこの子に託そうとしているのかしら。いやだ、出産したとたんに母親になっているって、なんたる不思議なの)


 いまや、固さや不潔さもそうは気にならなくなった子持ち蒲団に横たわりながら、お良は久しぶりに仙台の母を思っていた。かあさまもこうして子どもを産んだのね。頼めばなんでもやってくれる愛蔵とちがって、とうさまは頼りにならなかったから、さぞや不安なことも多かったでしょうね。なのに少女のころは……ごめんなさい。




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