第22話 真綿にくるまれるようにして育った嫂さま 🎎



 お良のいまの誇りは、夫が先進的な養蚕技術のリーダーであるという事実だった。東京専門学校を卒業した愛蔵は北海道に渡って農場経営を志すも安兵衛に反対されて帰郷した。その代わりのように費用を出してもらって自費出版した『蚕種製造論』が注目されて全国の養蚕家の尊崇を集め、以来、各地からの見学者があとを絶たない。


 養蚕は、春蚕、夏蚕、秋蚕の三期に分かれる。冬が近いので失敗が多いとされる秋蚕について「海から遠くて湿度が低い信濃は、奈良の古代建築や美術品がいまもなお良好な保存状態を保っているのと同じく秋蚕飼育に適している。げんに梓川畔の風穴を利用して蚕種の発育を遅らせ、秋蚕を飼っている例もある」と愛蔵は書いている。


 好奇心の旺盛なお良は、その風穴をこの目で見たいと愛蔵に頼んだが「そりゃあ無理というもんだよ、いくらお良さでも。上高地へ行く険しい山道を延々と登ったさらにその先にあるんだからなあ。おれをサポートしようとしてくれる気持ちはうれしいが、遭難でもされた日にゃおれの面目が立たんで」冗談まじりに軽くいなされた。


 やわな女と見られたことが口惜しくて、ならばと足袋を脱いで裸足になってみた。東京人は夏でも足袋を穿いているのかと揶揄われていたこともあり、以前から気になっていたそれを脱いでみると、素足に感じる板の間や畳の感触が清々しかった。勢いこんで庭へ降りてみたが、小石の痛さに思わず悲鳴をあげてまたしても笑われた。



      *



 相変わらず半人前の身を早くなんとかしなくては、家族が受け入れてくれないなら自分でそういうベクトルに仕向けなければとお良は焦っていた。女中の真似をして蚕に食べさせる桑を摘む身支度を整えて畑に出て行くと、分家の女衆が「あんれまあ、そんな格好をして~。はじめてずらに、大丈夫かえ?」驚きの目を見張ってくれた。


「無理せんでええよ、少しずつ慣れればいいんだから」労りの言葉をかけてもらったお良は日覆い頭巾のかげでなみだをこぼした。その夜、久しぶりに心が動いたことを夫に報告すると、よかったなあとよろこんでくれると思っていた愛蔵は案に相違してすっと表情を引き締め、妻の心得ちがいを諄々と諭すふうだったのには面食らった。


(「分家の嫂さは生来のお蚕飼いで、学もないし、まして手引書を読むでもないのにかつて一度も失敗したことがない。それは、頭で飼うのではなく、心で飼うからだ。おかいこさまに寄り添い、母親のように至れり尽くせりで世話するからだ」という夫の言葉は頭でっかちな自分を戒めているのだろうか。一朝一夕を狙うなと……)


 ほかに味方がいない、いわば四面楚歌のなか、やっとひとり友だちを見つけたと弾んでいたお良の気持ちがぺしゃんこになったのは、分家の嫂といえど、よく知らないひとに安易に心を許して、うっかり家のなかのことを打ち明けたりしたら、うわさが巡りめぐって、あとで痛い目に遭うと示唆されていることを悟ったからでもあった。



      *



 ちょうどいい機会と思ったのか、愛蔵はあらためて義兄夫婦のことを話し始めた。「筑摩県でも聞こえた名家で真綿にくるまれるようにして育った嫂さが従兄の兄さのところに嫁に来られたのは兄さが二十一、嫂さが十六のときだった。おれが小学校で九九を教わったとき、勇んで帰って嫂さに教えたが、どうしても覚えてくれなんだ」


 嫂さはそういう可愛らしい人なんだよ。そう言って無邪気に同意を求める夫にどう応えたらいいのかお良は途惑う。簡単な算数すらも理解できない? いや、あえてそういうふうに装っている? いずれとも判別がつかないが、夫の安兵衛を頼りきって羊のように従順な義姉の真実の一端を見つけたようでお良は複雑な気持ちだった。


 その安兵衛といえば、どっしりした大柄な身体にふさわしく心も寛容な好人物で、家内外の女たちを弱い者、庇護すべき者として見てくれる。いつまでも半人前のお良も武家のむすめがこんな田舎に嫁入りしたのだから当然と思ってくれているらしく、あれこれ忖度せずに嫂に準じていれば、お良も難なく暮らしていけそうではあった。


(庇護してくださる気持ちはありがたいけど、裏を返せば、女を男と同等とは考えていない証しで、自分の羽織の下にひっそり生きているべき存在が一個の独立した精神を持つなどあり得ないと考えているのではあるまいか。だとしたら、いまは平穏に見えても、遅かれ早かれアイデンティティが衝突するときがやって来るのではないか) 


 そんなお良の思いをよそに、安兵衛は村の大旦那としてますます人望を深めているようだった。それも無理もない、なにをやらせても堪能で、これだけは出来ないということがひとつもない。家業の骨接ぎ医や養蚕、細かな家事はもとより万水川に網を打っての漁猟、集まって来る若者相手の腕相撲、なにごとにも完璧な力を発揮した。


 いわゆる人誑しというのだろうか、安兵衛が行くところ自然に人が集まって村人や患者に慕われるのは、悠揚迫らぬ風体や福々しい温顔もさることながら、自家製の薬を高値で売りつけたり、やたらに治療回数を長引かせたりなどで身銭を稼ぐ姑息さが微塵も見当たらなかったからで、このひとを敵にまわしたら、とお良は畏れた。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る