第2章 北アルプス山麓の田舎暮らし

第12話 勝海舟揮毫・李白の詩&青柳有美・自作の詩 ⛪



 それから結婚式までのプロセスは、とんとん拍子というよりも呆気にとられるほどのスピードで進んで行った。まずは巌本善治・佐々城本支・島貫兵太夫三者の連名で「一八九七(明治三十)年三月二十日午後四時半より牛込払方教会で押川方義司式による挙式」と招待状が発送される。相馬愛蔵二十七歳、星良二十二歳の春だった。


 結婚にあたり、お良は最上級生になってから室長までつとめた明治女学校の寄宿舎を辞して佐々城豊壽叔母宅に移った。叔母が新橋ステーションの近くの高級洋品店で新婚布団用の生地を買ってくれたので、自分でそれを縫って綿を詰める。故郷の兄・圭三郎が送ってくれた祝儀で、神田鍛冶町今川橋詰松屋呉服店へ丸帯を買いに行く。


 みじめなことに、花嫁の自分に出来た嫁入り支度はたったそれだけだった。相馬家から届けられた式用の着物は、足利の織物屋に特注したという黒羽二重で、裾模様がないのがさびしかったが、四葩よひらの花弁を菱形にした女紋が胸、袖、背の五か所に染め抜かれていて、訪れたこともない婚家の格式が偲ばれる、最高の上物だった。



      *



 仙台の実家の困窮ぶりを思えばそれだけでも感謝しなければいけないことは承知しているが、明治女学校の同窓生はいずれも資産家の令嬢だったのに自分ひとりが貧しく、上級生や同輩の縫物はもとより、ときには下級生の洗濯までして学費を捻出しなければならなかった口惜しさがリアルによみがえって、お良の心は弾まなかった。


(豊壽叔母にも感謝せねばならないけど、率直に言って、少し冷たいんじゃないの?自分やむすめたちはあんなに華やかに着飾っておきながら、仙台の生家を守る姉・巳之治のむすめである姪の結婚祝いが布団生地だけ? 自分本位でまわりに気が利かない点は以前から気にかかっていたけど、もしかしたら根っからの吝嗇なのかもね)


 挙式当日の朝になっても化粧もせず、物憂い顔を俯けている従姉の気持ちを知ってか知らずか、独歩に内緒で出産したむすめを里子に出した信子が喪服のような地味な身なりのまま束髪のおくれ毛をかきあげたり帯を締めたりしてくれるのが、髪に挿すかんざしひとつ持たない(叔母は貸してもくれないのだ)お良のさびしい慰めとなった。



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 そんな花嫁にふさわしいとでもいうように、日本基督教会での結婚式は番狂わせの続出だった。まず仙台で一心に尊敬した押川方義の都合がわるいということで、司式はアメリカ人牧師に代わった。亀甲花菱の紋付きの花婿の介添えの島貫兵太夫はいいとしても、産後間もない夫人に代わる花嫁の介添えは男性の巌本善治がつとめた。


 日本の風習を知らないらしい牧師に聖書朗読につづいて指輪の交換を促されたふたりは慌てて首を横に振らねばならなかった。挙式後、一同は近くの披露宴会場の料理屋に移ったが、相馬・星両家からの出席者はひとりもおらず、仙台の実家代理として佐々城夫妻、穂高の代理として婦人矯風会・潮田千勢子(信州飯田出身)が座った。


 披露宴のとき、東京での式の費用はすべて豊壽叔母が出してくれたことを愛蔵から耳打ちされる。料理はこの店がふだん出している定食だけという、披露宴と呼ぶにはあまりに簡素だったのも、婦人矯風会の分裂後に手がけた北海道の農場経営が頓挫し、教会建築の費用にも困っていたからだと聞いて、お良は自分の迂闊を恥じた。


(以前の羽振りのよさがないことはうすうす察していたけど、まさか叔母さまの衣装もレンタルだったなんて。それでわたしの花嫁支度も……ごめんなさい、叔母さま)



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 型破りな披露宴ではあったが、お良の友人関係を主とする五十人ほどの参加者たちはみな、心からふたりの門出を祝してくれた。白眉は巌本善治が勝海舟に揮毫してもらったという李白の詩「浩歌待明月」(声高らかに歌い明月を待つ)の披露で、明治女学校の詩人教師・青柳有美は、自作の詩「寄ヒポクリーンの泉」を贈ってくれた。


 のち、穂高から東京の青柳に送った手紙の評論が『女学雑誌』に掲載されて物議を醸し、それが相馬夫妻上京の呼び水になることを、披露宴に出席しただれも知るよしがなかった。少女ピレネのなみだから出来た泉(お良)に駆け寄る天馬ペガサス(愛蔵)を謳う若い詩人が、じつはひそかに今日の花嫁に想いを寄せていたことも……。




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