第15話 わたしはお宮の狛犬みたいなものですよ ⛩️



 よく名前を聞いていた松本城は、四百年の歴史も虚しく無惨に荒れ果て、地元民の自慢と見える五層の天守は、いまにも崩れそうに傾いている。ここにも維新の痕跡が……仙台の青葉城跡が思い出されて、お良の眉は自ずから曇る。そんな妻に愛蔵は加助騒動という百姓一揆の話をしてくれた。処刑前のひと睨みで天守を傾かせたと。


 伊達六十二万石 VS 戸田六万石では大名の格に差異がありすぎるが、それでもこの田舎まちにも中学校、女学校、裁判所などひととおりの施設が整っており、そのうえどことなく文化的な匂いが漂う気配が、昨日の峠を越えて来た目にはうれしく映る。わたしにはやはり街の暮らしが向いているんだわ、お良の不安がまた頭をもたげた。



      *



 木下尚江の家は荒れるに任せた松本城に近い女鳥羽川畔にあった。これまた故郷の広瀬川を見慣れた目にはずいぶんと小ぶりな河川に思われたが、いちいちを比較してみても仕方ないと思い直す。尚江の父祖は武家ということだったが、足軽程度の軽輩だったらしく、初対面のお良にそのことはあまり語りたがらないように見えた。


 品のいい老婦人が出て来て「遠いところをはるばるようこそお出でなされたなあ」やさしい笑顔で迎えてくれた。愛蔵は前もって信頼のおける尚江の母親にお良の羽親はねおや(後見人)を頼んでくれてあった。聡明な母親は実家が遠いお良に「わたしはお宮の狛犬みたいなもので、門から外へは出られないの」と嫁の在り方を教えてくれた。


(郷に入っては郷に従えというけれど、よって来る歴史も文化風土もまったく異なる遠い仙台育ちの嫁を一刻も早く信濃色に染めようとする人たちが、この先、何人も手ぐすね引いて待ちかまえているような気がする。気の重いことだけど、とりあえず目の前の老婦人に気に入っていただけるように、わたしなりに感じよくしておこう)


 愛蔵よりひとつ上、お良とは七つちがいの木下尚江は青白い顔の眉間に人を惹きつける苦みがある痩身の人物だったが、なにかと言えば豪放磊落に笑う癖は内心の小心の糊塗では? 従順な花嫁を心がける笑顔の裏でお良は冷静に観察した。代言人(弁護士)にして新聞記者でもある尚江とお良は、のち丁々発止と渡り合うことになる。



      *



 木下家には愛蔵が手配しくれたお良の嫁入り道具が到着していた。といっても箪笥や鏡台などの家具類がいっさいないことは先述のとおりで、豊壽叔母に買ってもらった生地を自分で縫った寝具のほかは、同じく叔母の心尽くしである小型のオルガン、勝海舟揮毫の李白の詩、西洋画家・木下杢太郎の二十号の油絵『亀戸風景』……。


 この珍妙な荷物を、何事にもこだわらなさそうなorそう装っている尚江自身はともかくとして、軽輩といえども武家の出の母親の目にどう映るか気になった。そうこうしているうちにも手配の人力車と荷車が着き「さあさあ日の暮れないうちに穂高へ入るように」木下母子に急かされたお良は小柄で色白な都会風の身を人力車に預ける。


 三台の車は一路西方に進み、街中の女鳥羽川よりずっと川幅が広い梓川をわたると越後と結ぶ糸魚川街道に出て、今度はひたすら北上することになった。この古道はそのむかし承久のころ陸奥の平将門から出た相馬家の先祖が南下して来た由来の道で、南安曇の穂高見命ほたかみのみこと(穂高神社の祭神)が鎮めた場所を永住の地と決めたのだという。



      *



 人力車の客席からあたりを眺めると、東と西に高い山容が連なり、そのあいだの平らなところを川が流れ、川の両岸に田んぼや畑が広がり、ところどころに百姓家がかたまっている。土埃が盛んに舞い立つ道端に男女の道祖神がやたらに多いのは土俗的な信仰の証しだろうか。愛蔵のキリスト教布教活動の困難にお良は思いをいたす。


 ――有明山御燈明。


 大燈籠が見えて、いよいよ婚家が間近いことを知ったお良の背は自ずから伸びる。その先の鎮守の森のあたりで人影が動くと思っていたら、夫妻到着の知らせが走ったものと見え、そこここから湧き出て来た老若男女が、もの珍しそうに道端に並んで、愛蔵に「お帰りなさい」と声をかけ、好奇に満ちた目をうしろのお良に流して来る。


(ほうら、さっそく来なすった。仙台でも物見高さは同じだったけど、落ちぶれたといえど実家の周囲は武家ばかりだったのに、ここの村人たちは野良着のまま外へ出て来て恥じる気もないらしい。申してはなんだけど、この粗野な感じ、たまらないわ。男性に対して妙な比喩だけど、愛蔵さんは雛にも稀なという類いなのかも知れない)


 そんなことを考えているうちにも、集団にふくれあがった一行は群れで野良道を移動し、樹齢数百年と思われる大欅が目印の豪壮な本棟づくりに到着した。いよいよ婚家に一歩を入れるのだと思うと緊張で手足の指先を氷のように冷たくしたお良の脳裡をまたしても鬼界島の僧俊寛がかすめかけたが、いけない、いけないと思い直した。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る