第14話 よそものを嘲おうと手ぐすね引いている山脈 🐎



 翌朝早く、母と姉に別れを告げたお良は愛蔵と連れ立って信濃の婚家へ向かった。上野で乗った列車を高崎で乗り換えると上田で下車。その先は徒歩で峠を越えるしかない。世間知らずのお良が心配だとして、島貫が上野からの付き添いを申し出てくれたので、思いがけず三人旅となった。上田の旅籠でお良はひとりで別室を取った。


 遅くまで談笑する愛蔵と島貫をのこして小部屋に引きあげたお良の胸をさまざまな思いが去来する。生まれて以来のあれやらこれやらがしきりに思い出され、運命の手に委ねられた未来への不安が感傷的な胸をよぎる。はじめての信濃の夜は堅い箱枕のうえの頭をごろごろさせて更け、両の目からはひっきりなしになみだが滴っていた。


 いまさらだが、お良が嫁ぐのは、東京や横浜など文明開化の巷とは無縁の山国で、そのなかでもとりわけ奥深い飛騨山脈の麓に位置する婚家は、豪農とはいえ武家とはなんのゆかりもない、ただの平民だった。いくら貧乏しても武士の出自のプライドを捨てきれないお良のまなうらを遊郭に売られた小学校の同級生の横顔が通り過ぎる。



      *



「じゃあ愛蔵くん、わがアンビシャス・ガールをよろしくね」軽妙な挨拶をのこして島貫が去ると、やっと夫婦だけの旅になった。宿に呼んだ二台の人力車で青木村へ向かう花婿花嫁だが、そこから先の十二里の道程は東山道の難所中の難所である保福寺峠を自力で越えねばならない。お良は愛蔵が雇ってくれた馬に恐るおそるまたがる。


(なんという山また山の重畳たる景色だろう。仙台にも山はあったが、もっと低く、もっと穏やかな貌をしていた。ここの山は鋼のように眼前に立ちはだかり、身のほど知らずに迷いこんだよそものを嘲おうと、手ぐすねを引いているようにさえ見える。なんとも意地悪な……この山に育まれた文化風土は推して知るべしではなかろうか)


 初体験の馬に振り落とされまいと必死にしがみつく妻の畏れに無頓着な愛蔵は、見るからに鄙びた身なりの馬子と土地の方言でのんびりと世間話を交わしている。深々と積る落葉に紛れた斑雪に馬のひずめは滑りやすいので、馬上のお良は愛蔵の道案内に耳を貸す余裕もない。早く松本へ着かないものかと、ただそれだけを祈っていた。

 


      *



 三月の峠道といえど、太陽が頭上にさしかかると意外な暑さになった。お良は愛蔵に頼んで、荷物から海老茶色の日傘を取ってもらう。一点豪華な絹張りなので、開くときシュッといい音がして緊張と不安に尖っていた気持ちを和らげてくれたものの、梢に引っかかって馬をひどく驚かせたので、頂上まで少しのところで徒歩に替える。


 頂きには「馬頭観世音」と刻まれた石塔があり、裏に天保十三年の銘記が見えた。峰の茶屋に入ると先客たちの無遠慮な視線にさらされて身の縮むような思いをする。どこからどう見てもこの山奥にふさわしくない都会風の身なりがなんとも奇異な印象を招くのだろうと推察され、これから向かう穂高でもこんなふうかと不安になる。


 仙台から上京したばかりのころはどこへ行ってもお上りさんだったが、知らぬ間に都会人に変身を遂げたらしい。これって東京の水で洗われたということなのかしらと満更でもないところへ、茶屋の老婆が凍り豆腐と油揚げの炊き合わせを運んで来た。ひと口食べてみて塩辛さに辟易する。山国の味覚に馴染むことができるだろうか。



      *



 そんなお良の思いをよそに、自然はどこまでも勇壮に険しく眼前に広がっている。道々、馬の背から仰ぎ見て来た山々はいまや脚下にひれ伏していて、西空にいちだんと高い稜線が連なっている。あの尖った頂は槍ヶ岳、手前の三角形は常念岳、双子の山は乗鞍岳……愛蔵の説明に小さくうなずきながらあまりの絶景に息を呑んでいた。


(この国に生まれ育った夫には、あの山巓は身内のように映るらしいが、よそものの自分には畏怖としか感じられない。そんな夫には打ち明けられないが、そのむかし、鬼界島に流された僧俊寛の心情もかくやと打ちふるえて引かれていく自分なのだ)


 黙しがちな妻を引き立てようと、愛蔵はこれから同居する家族の話をしてくれる。代々が庄屋の家系で、現在の当主は骨接ぎ医をしている長兄の安兵衛。末弟の自分が養子に入り、子どものいない夫婦のあとを継ぐことになっている。これから立ち寄る松本には木下尚江という松本中学の先輩がいるから、兄と思って頼りにするがいい。


 早朝に上田を発ったが、峠の由来の曹洞宗保福寺を見たときはすでに浅春の日が暮れていた。青木村へ帰る馬子と別れた夫婦は、浅間温泉の鄙びた宿に旅衣を脱ぐ。古い伝統のある湯治場らしく、傾斜の急な坂の両脇に石置屋根の旅館が低い軒を並べ、自炊の老若男女が出入りして温泉場ならではの雰囲気を醸しているのが珍しかった。




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