第16話 嫁に来るとは男の看護婦になることですか?! 🌙



 うながされて人力車を降り、きれいに掃き浄められたアプローチを歩いて行くと、幅二間もある大玄関いっぱいに掛けられた大簾の左右に朱色の房が垂れていて、竹で編んだ簾に「相馬本」の文字が浮き出ている。その脇に黒塗りの駕籠が置かれているのを見たお良の胸を、幼いころかくれんぼをした祖父・雄記の駕籠がかすめてゆく。


 ――遠いところ、よく来なすった。


 悠揚迫らぬ貫禄で迎えてくれたのは四十がらみの恰幅のいい義兄にして舅でもある安兵衛、そのうしろに隠れるようにひょこんと無言で頭を下げた小柄な女性は、義姉にして姑のいしであるらしい。押し出しのいい安兵衛&世慣れない妻というのがお良の第一印象で、玄関先の駕籠は、この義兄が骨接ぎの往診に用いるものらしかった。



      *



 南安曇郡東穂高村字白金耕地。これからお良が住む地籍である。ひとまず長旅の疲れをとるように案内された新婚夫婦の部屋は、母屋の二階に新築された八畳間。休めと言われても近所の手伝いの女性たちが入れ代わり立ち代わり上がって来るので帯も解けやしない。所在なく座っていると、好奇の目は自ずからお良の荷物に集中した。


 そこに当然あるべき箪笥や長持ち、鏡台の類いが見当たらないことをさも重大事のように取沙汰して「おらがおかしいのかや、どうにも分からねえ」「まさかと思うがあれだけっちゅうことはあんめえに」「どういうことかあとで大旦那さまにお伺いせねばなんねえずら」階段の踊り場に群れて、お良に聞えよがしに言い合っている。


(まさに針の筵とはこういうことだわ。他者のあれこれをあげつらっては悦に入る。楽しみの乏しい田舎人の浅ましさの典型ね。宮城女学校やフェリス女学院、明治女学校も女の園ではあったけど、教養の高い人たちだったから、さすがにそんなことはなかった。いま思えば、ずいぶんと恵まれた環境に住まわせてもらっていたわけね)


 いきなり女衆の辛口批評三昧に見舞われたお良は、実家が貧乏で嫁入り支度もしてもらえない境遇が恥ずかしいとは微塵も思わなかったが、この先いかなる努力をもってしても知見や価値観を共有できるとは思えない人たちのあいだで暮らす至難をしっかりと覚悟せねばならないということを思い知らされ、人知れず深い吐息をついた。



      *



 その晩、お良は愛蔵にはじめて抱かれた。身持ちの堅い女のプライドを維持するため、披露宴会場の料理屋の初夜から、島貫兵太夫と一緒の上田の常盤館、さらには峠越え後の浅間温泉の宿でも、かたくなに拒みつづけて来たのだが、さすがにこれ以上は無理だよと愛蔵に押しきられたかたちになったのが、かえすがえすも残念だった。


 ――嫁に来るとは、男の看護婦になることですか?!


 征服した新婦の口から烈しい言葉が放たれたが、ようやっと思いを遂げた愛蔵は「あははは、おまえという女は、よっぽど頭でっかちに出来ているんだなあ」余裕でお良の純潔主義をうっちゃった。真実の愛はどこまでもプラトニックを貫くべきで、性の営みなど、人格のある人間の行為ではないと信じているお良はさらに言い募る。


「あなたはご存知ないでしょうけれど、布施淡さん以外にもわたしには男性の友だちがたくさんいたのです。わたしだけでなく明治女学校ではみなそうでしたが、男女の友情の目的はあくまで魂の昇華であり、身体の交わりなど汚らわしいものは軽蔑していたのです」「なるほど」くるりと背中を向けた愛蔵は、すぐに寝息を立て始めた。


(あんなことをしておいて平気で眠れるのね、このひとは、肉体労働のあとみたいに心地よさげな疲れを貪って。結婚の実態がかように醜いものだったとは……大勢の男友だちと同等に交流し、ときには泊りがけの旅行にも出かけながら、清らかな関係を保って来た大切な操をついにここで売り渡してしまうとはかえすがえすも残念だわ)


 そう考えると、なみだがあとからあとから湧いて来て、なかなか寝つけなかった。そのうちいつの間にか寝入っていたものと見え、意外にすっきり目を覚ますと、日はかなり高くまで昇っていたので、慌てて身支度を整え、急いで階下へ降りて行った。台所の水場で背を向けたままの義姉は「お疲れずらい」抑揚のない口調で言った。




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