第8話 フェリス女学院にもイデオロギーがなくて…… 🏫
叔母の家でお世話になっていたお良は、春のある日、フェリス女学院へ出向いた。横浜駅から四キロの道を歩いて行くと、丘の上にひときわ目立つ瀟洒な建物が見えて来る。窓枠だけ深緑をした深紅色の西洋建築の屋上に風車がまわっている。国際都市にふさわしく異国情緒たっぷり、こんな学校で学べるのかとお良は胸を躍らせた。
教頭から学校の説明を受けたあと案内された寄宿舎は畳敷きで、ほかの女学校を卒業して入り直した室長は二十五歳、十六歳のお良が最年少だった。英語力でクラス分けされ、試験期間のあとで本入学が許されたが、その喜びもつかの間、膝がふるえて階段が昇れなくなり、脚気と診断した校医から房州への転地療養を指示された。
医師の別荘は暮らし向きのすべてが洋風で、親切な夫人は新鮮な海山の産物を卓に出して、一日も早い快癒を祈ってくれた。夫人の弟は翻訳家で有名な黒岩涙香だったので、海外の探偵小説を読みたいだけ読めるという、幸運なおまけまでついて来た。一方、お良は隻脚の弟・文四郎が急性腹膜炎で急逝の電報をここで受け取っている。
*
脚気が完治して寄宿舎にもどったお良を待っていたのは一事が万事キリスト教一色の学園生活だった。成り立ちからしてそれは当然としても、宮城女学校と同じくこの学校にもイデオロギーが皆無であることが、お良をがっかりさせていた。なにゆえに讃美歌をうたって、なにゆえに祈りを捧げるのか、その明確な答えが欲しかった。
そんなお良の苛立ちを増幅させる出来事がつづく。冬休み、兄から送られて来た旅費で帰省してみると、久しぶりの実家は無惨な荒廃を極め「文四郎の臨終についていてやれなかった」と泣き伏す母の髪は真っ白で、祖母のそれよりも老けて見えた。「だから、早く家屋敷を処分すればよかったのに」言わずもがなが口をついて出る。
そんな鬱屈を紛らそうとバザー用の編み物をしていると上級生に「日曜日に働いてはいけない」と咎められた。納得できずに聖書を確認すると、マタイ伝に「安息日に善をなすはよし」とあった。それにアメリカ人の校長一家は日曜日に人力車で礼拝に行くが、異教徒を働かせてもいいのか、買い物を禁じながら賃金を支払って……。
(宮城女学校のときも同じように感じたが、どうもアメリカ人には矛盾が多いような気がする。言行不一致というか、立派なことを説くわりに自身の生活意識が低い)
祈祷会で指名されると声に出して祈りを捧げる規則だが、直接神と結ばれる機会をそんなかたちで潰されたくないのにと日ごろから感じてもいた。詳しい事情は知らないが東京婦人矯風会で孤立した豊壽叔母は北海道に渡り苦界の女性たちのために女学校を設立するという。フェリスの教師も生徒も少しは社会に関心を払って欲しい。
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内心を隠すことが苦手なお良が善意のキリスト者の狭間で孤立を深めつつあった二年生の夏休み、居残っていた寄宿舎で一葉の絵葉書を受け取る。布施淡の手による毛筆スケッチで、懐かしい仙台の風景がみずみずしく描かれていた。矢も楯もたまらず上野駅から東北行きの列車に飛び乗ったのは明治二十六年、十七歳の夏だった。
母から知らされた新しい実家の住所は生まれ育った武家屋敷街とは対極の場末にあった。六百坪の家屋敷が抵当流れになって移り住んだ家をさらに追われて、ついにどん詰まりへ落ち着いた惨めな結果だったが、意外にも母はさっぱりとした表情で、「ここへ越して来て、ようやく楽になりましたよ」と、むすめに本音を打ち明ける。
母の言葉のとおり、落ち葉の吹き溜まりのようにくすんだい一帯には元武家たちが零落の身を寄せ合うようにして暮らしていた。近所の掘立小屋の「蚯蚓」とあだ名された老人は、その辺の土を適当に掘り返しては大八車に積んでどこかへ売りに出かけて行くのだが、そのわずかな代金が十人家族の生命線になっているとのことだった。
(乳飲み子を背負ったお嫁さんが大八車を押して行くが、息子はどうしたのだろう。あんな老人が力仕事をしなければ生きていけないとは、なんと過酷な社会でしょう。それもこれも戊辰戦争で負けたせいと思うと、薩長こそ憎んでも憎みきれないわ)
ある日、布施淡が星家の勝手口にあらわれて「牛乳配達や工事現場の肉体労働で日銭を稼いでいたが、久しぶりに休みが取れたので」と言って散歩に誘ってくれた。肩を並べて歩いて行って、ある小山のいただきに到着すると、海を見晴るかす南斜面の傾斜地一帯を指さして「ここから見える限りが布施家の墓地だよ」と教えてくれた。
しばらくして再び訪れた布施淡は友人・菅野英馬を伴っていた。三人は布施家など旧藩時代を訪ねる旅に出る。最後の当主となった備前守は孫息子を勘当した人物とは思えないほど機嫌よく若者たちを歓迎してくれ、お良の祖父・雄記の思い出話などを懐かしげに語ってくれた。各地をまわって仙台にもどった三人は記念写真を撮る。
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その年の師走、フェリス女学院の寄宿舎を訪ねて来た布施淡を同窓生四人に紹介したお良は、みんなを誘って鎌倉・江の島を巡る旅に出ることにした。じつは、このとき、お良が知らないところで思わぬ親交が生まれていたのだが、きわめて早熟なのに男女の機微には疎いお良はまったく気づかず、それがのちに大きな悔いになった。
翌年の夏休みに帰省したお良が旧友の小平小雪にフェリス女学院の物足りなさを打ち明けると、先進的なお良の気質をよく知っている小雪はいたく同情して、自身が在籍する明治女学校発行の『文學界』編集室が置かれている星野天知邸(東京日本橋)まで連れて行ってくれた。あなたの得たいものがあるかも知れないからと言って。
ふところが深い天知は、お良の聡明と裏腹の危なっかしさを即座に見て取ると、ふたりを鎌倉の別邸に案内して「好きなときに来て、ここにある本はなんでも読みなさい」と勧めてくれた。のちに調子に乗ったお良が恋愛小説の試作を見てもらうと苦い顔をされ「情話小説を書くのは早い、読書に専念すべし」と釘を刺されるが……。
それやこれやで、なんとか気を紛らわせていたお良の向学心はますます加速して、やはり明治女学校へ行こうという気持ちをかためる。フェリスとちがいアメリカからの援助がない明治女学校は生活費も学費もことごとく自前ということになる。故郷の兄に相談すると「勝手にしろ」と実質的な承諾を得る。二十歳になろうとしていた。
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