第9話 ついに念願の明治女学校へ入学する 👘 



 明治女学校は元侍町の麴町区下六番町六番地にあり、異国情緒のフェリス女学院とは正反対の純和風のたたずまいはお良の好みに合致したが、校舎も寄宿舎も校長の自宅も独身教師の寮も巌本善治校長が講演で自嘲するような茅屋破壁で、全盛時には百人いたという生徒数も三十人に減っており、世間知らずのお良の目にも危く映った。


 だが、巌本校長の心意気は変わらず「当校は花嫁学校にあらず、社会へ出て要職につける教育を目ざす。これまで外国人宣教師に頼って来た教育を日本人の手で行い、英文学と同様に国文学にも力を入れるという信念に基づくとき、教師必ずしも教えるひとではなく、生徒必ずしも学ぶひとでないことは自明の理である」と熱く説いた。


 但馬国出石藩の儒者の子・木村熊二が創設し、同じく幕臣のむすめである妻の鐙子と共に侍の子女の教育に当たった。漢学者の子・巌本善治が校長になったのは明治二十五年で、ジャーナリスティックな感覚を駆使して『女學雑誌』を創刊し、寄稿者の若松賤子(フェリスの卒業生)と結婚、二人三脚で学校と雑誌の運営に当たった。


 教師陣も、星野天知、馬場孤蝶、上田敏、北村透谷、島崎藤村、田山花袋、柳田國男、大町桂月と華やかで、文学色の濃い校風を醸成していた。ただ温厚な木村熊二と逆に情熱のひとで女生徒の人気を集めた巌本校長の個性も影響してか、明治女学校では教師と生徒の恋愛が少なくなく、ときとして世間の耳目を集めがちでもあった。



      *



 その筆頭が北村透谷と斎藤冬子(宮城女学校の先輩)のカップルで、鋭い質問をする冬子に師の透谷がいかに心酔したか、ふたりがいなくなっても語り草になっていた。つぎに取り沙汰されるのが同じくバッドエンドとなった島崎藤村と佐藤輔子のペアだったが、お良がもっとも心を痛めたのは尊敬する若松賤子の闘病と早逝だった。


 しかも、あれほど相思相愛の夫婦だったはずなのに、愛妻を亡くして間もなくから巌本善治校長の女性遍歴が囁かれ始め、それも手あたり次第といっていいありさまと聞かされると、先述の二例の破綻もあって、お良は「なんて汚らわしいのでしょう。あんなに妻よ想いびとよと言っていたのに……」大人の男性への幻滅を深めてゆく。



      *



 一方、お良は思いもかけない事件に巻きこまれていた。豊壽叔母の長女・信子の国木田独歩との恋愛沙汰である。叔母の家に出入りする貧相な若い男性を信子から紹介されたときに『國民新聞』に日清戦争従軍記「愛弟通信」を連載している記者と知ったが、その時代がかった大仰な文章によもや信子が惹かれるとは思いもせず……。


 母親に似て華やかな美貌の従妹と暗い表情の記者のイメージが結びつかなかったのだが、男女の仲は他者にはうかがい知れないとかで、叔母が気づいたときはもはやあともどりできない状況に陥っていたらしい。駆け落ちで一緒になったものの、嫉妬深く独占欲が強い夫から逃げ出した信子を独歩が執拗に追いかけて来るという修羅場。


 あげく独歩には告げずにひそかに子どもを出産し、浦子と名づけて養女に出した。その部分を除いた顛末(のちに地団太を踏む)を独歩が新聞に発表したり、有島武郎が小説のネタにしたり、お良と同じく侮られるのが我慢ならない豊壽叔母のプライドはひどく傷つけられ、信子が引き起こした事件は佐々城一家に深刻な打撃を与える。



      *



 さらにお良を悩ませたのは、身に覚えのない、とんでもないスキャンダルだった。明治二十九年一月の『中央新聞』に「女学生の身投げ」というセンセーショナルな見出しで掲載されたのは、ふしだらな男性関係の末の痴話げんかで井戸へ飛びこんだという根も葉もないつくり話で、翌朝、お良は巌本校長に呼ばれて真偽を訊かれた。

 

 疑いはすぐに解け、その翌日には同紙に取り消し記事が掲載されたが、いったん活字になったものは読者の脳裡に擦りこまれるものと見え、当分のあいだ、お良は周囲の好奇の目に堪えねばならなかった。心外だったのは正直な経緯を知らせた布施淡から返信がなかったことで、対照的にお良を信じると言ってくれた母に信頼を深める。


(無礼な男に媚びない自分への意趣返し、いわば自業自得とはいえ、まいったわ。過日の文学合評会のとき例の恋愛小説を実体験であるかのように喧伝したのは以前からわたしに言い寄っていた男。気色わるい目つきでしつこく絡んで来るから、つい顔をそむけてやったけど、それがあいつを怒らせたんだね。まったくちっちゃい男だよ)


 もうひとり、力強い味方が出現してくれた。じつの兄とも慕う島貫兵太夫の紹介で見合いをしていた信濃穂高の養蚕家・相馬愛蔵だった。お良より五歳上という愛蔵は「新聞記事を読みましたが、あなたを信じています。勇気を失わないでください」と心の籠った手紙をくれた。布施淡は冷たいのに……弱っているお良はなみだぐむ。




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