第4話 こうして梅の老木は売られて行った 🌳
人の世の右往左往とは関係なく月日はどんどん流れ、お良は尋常小学校を卒業する歳になった。成績抜群なので当然のごとく上の学校への進学を希望したが、星家のふところ事情がそれを許さなかった。父は相変わらずの無関心に見えたのでお良の交渉相手は必然的に母になり、がんとして首を縦に振らない母をお良は恨むことになる。
「おかあさまはわたしに学問をさせたくないのね。うちの手伝いをさせたいのね」
「そんなことおまえ……とにかく、いまのわが家では、これ以上は無理なんだよ」
「なんとかしてくれるのが親でしょう、わたしより出来ない同級生が進学するのに」
「すまないとは思っているけど、どこをどう叩いても学資など出せやしないんだよ」
いや、うそだ、新時代の面目を保つ学校のお情けの、クラスにわずかに混じっている商人や豪商の子どもたちがこぞって進学するのに、こんなに大きな屋敷がある武家のむすめが手に職をつけるために裁縫学校へ行くしかないなんて、神も仏もあるものか。かあさんは出来るわたしが可愛くないのだ、いや、むしろ憎いのかも知れない。
*
そういうお良にしても、どうしても名前を覚える気になれない新興の事業所で働き始めた父のわずかな給料と、夜なべが当たり前になって久しい母の内職以外に収入がない家庭経済がいかに困っているかを知らなかったわけではない。図抜けて聡明なだけにすべてを承知していたが、であればこそどうにもならない現実が歯がゆかった。
零落する星家の実態を具体例で見てみる。まず、お良が九歳、小学校二年生のとき祖父・雄記が亡くなると、空いた隠居所は薩摩人官吏の夫妻に貸し出された。毎朝これ見よがしにサーベルを携えて夫が出勤すると、若い妻は室内飼いの黒犬を相手に三味線を弾いたり、大家の子どものお良たちを呼びよせてお菓子をくれたりしていた。
星家の庭の象徴だった梅の老木は、季節になると立派な実をつけてくれて、となり近所に惜しみなく配った残りは料理上手な母の梅漬けや梅酒の材料になっていたが、いつの間にか細い目を鈍く光らせた印半纏の男たちが出入りするようになっていた。商いに慣れない母が言い値で買い叩かれた果実は、子どもたちの学用品になった。
(なんなの、軽そうな仕草から暴力的な匂いを放つ男たちは……明らかにかあさまを見くだしている。この家にとうさまはいない、いても怖くないと知っているんだわ)
ある年、とうとうこの梅の老木まで売られることになった。何本かの梅の木のなかでもことさら年季の入った走り根を容赦なく掘り起こして余分な枝を刈り払い、剥き出しになった根をがんじがらめに荒縄で縛りあげて運び去る……職人の手慣れた作業を見ていられず家中に走りこんだお良は、母や祖母と肩を抱き合って号泣する。
*
すぐ現金になる機織りは、母の重要な内職だった。ある日、お良が学校から帰ると頭の手拭いを取った母がしきりにあやまっている。その母を執拗になぶっているのは、つい先年まで星家で働いていた作男の妻で、かつての奉公先の主人のちょっとした失敗を鬼の首でも取ったようにあげつらって、飴のように楽しんでいるのだった。
かっとなったお良は母の財布から小銭をつかむと「そんなに銭が欲しいならくれてやる。これでも喰らえ!!」と叫びつつ卑し気な嘲笑を浮かべている女に投げつけた。星家のじゃじゃ馬むすめときたらさあ……声高なうわさが広まることなど知ったことじゃない。立場の逆転した女に卑屈に腰を折りつづける母を見ていられなかった。
(まあ、腹立たしいこと。よくもあそこまでの手の裏返しができるものだわ。所詮、奉公人の妻は奉公人の妻、立場が逆転しても人品骨柄まで変わるわけじゃないのね)
祖父が遺した軸や壺などの骨董、先祖伝来の武具を入れた木箱や長持ち、由緒ある雛人形、母と祖母の着物、さらには名のある絵師による襖まで洪水のように家の外へ流れ出た。夏の夜、母の言いつけで川畔の暖簾をくぐると、風呂敷包みと引き換えに蚊帳が出て来た。季節の変わり目は質屋の儲けどきであることをお良はのちに知る。
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