第18話 一羽の大きな黒い鳥のような退屈 🐦‍⬛



 なにもしなくていいと素振りで示されてもそうはいかない。むしろ、お良の緊張は増幅し、日がな一日なにかに身構えるような日常が始まった。まだ外が暗い四時起きで愛蔵を起こさないよう身支度を整え、階下の義姉の気配を待ち構えているが、玄関の戸を開けるのは主婦の役目と決まっているらしいので手出しはできなかった。


 何日経っても義姉が用事を言いつけたり教えてくれたりする様子が見えないので、女中の水運びを手伝い始めると、そんなことはしなくていいと安兵衛に叱られる。近くの小川の水を満たした桶を天秤棒で担いで来た女中が台所の大甕に開けると、その水で米を砥いでかまどに仕かけ、味噌汁の用意もする義姉にも手を出しかねていた。


 炊きあがった釜を囲炉裏端に運び、家族それぞれの箱膳を並べる役目だけは新米のお良にかろうじて許された。当主の安兵衛の箱膳と箸箱は黒漆艶消し家紋入り、ついで義姉用、そのつぎが愛蔵用と造作に順位があることにも驚いたが、食後、飲み残しの湯で箸と茶碗をすすぎ、布巾で拭って膳に仕舞う風習は受け入れがたかった。


 

      *



 もっと驚いたのは、すべての家事に当主の安兵衛が口出しすることだった。朝晩の味噌汁の具を葱にするか大根にするかまで当主にお伺いを立て、その指示に従うのを当然としている義姉の従順ぶりには、大げさに言えば人間としてのプライドが欠如しているのかと疑せるものがあったし、安兵衛自身も偉丈夫に似ぬ小器と思わせた。


 結婚祝いに親せきから贈られた反物をひろげて、どういう風に仕立てようか義姉に相談しようとしているところへ、ぬうっと大きな顔を出した安兵衛が「上物を仕損じたら大事だぞ。どれ、おれが裁ってやらずか」太い腕を伸ばして来たのにはほとほと呆れた。なんなの、この家は?! 家業から家事までことごとくが男の支配下なのね。


 仙台の実家では男子は厨房に入れなかったし、針仕事など推して知るべしだった。先進的な豊壽叔母だって叔父にそんなことはさせなかったし、第一、人気医師の叔父は年中多忙だった。つまりは時間も体力も余っているのだ、この家の男子には……。結局、あれも駄目、これも駄目でお良に任された仕事はランプ掃除だけになった。


 夜、自室で夫に訴えても、義兄には頭が上がらず、幼いころから母親代わりに世話してくれた義姉が好きな愛蔵は困ったように眉を顰めるばかり。身内の話は歓迎されないことを知ったお良は、ひとり悶々と葛藤する胸の内を「わたしを取り巻くものは一羽の大きな黒い鳥のような退屈だ」ひそかに日記に吐露するしかなかった。



      *



 珍しい置き物のような扱われ方の暮らしでも自然に耳に入って来ることがあった。その手の話がなにより好物らしい女中が義姉の目をぬすんで、お良の反応を見い見い話してくれるのは、山また山に囲まれた閉塞的な環境がかえってそうさせるのかとも推察される、聞くだに耳汚しな粘着質の泥色に濁った情愛関係のエピソードだった。


 盂蘭盆会や村祭りでの野合は古くからこの地に伝わる年中行事のようなもので、毎年、何組かの若いカップルが生まれるのはいいとしても、聞かされて堪らないのは夫持ち妻持ちの中年同士の情愛騒動、ほとんど公然と言っていいほど、そういう風習が根づいているらしい。仙台でも東京でもあり得ない、まこと由々しき事態だった。


(なんて汚らわしいのかしら。申してはなんだけど、だらしなく無精ひげを生やして野良着をまとった百姓男と、人前で平気で赤子に乳房をふくませる百姓女のカップルなんて、いくら蓼食う虫も好き好きといえど想像するだけでぞっとする。若い男女にしたって、ほかにくらべる相手がいないからで、なにも選りによってまあ……)


 そんな本心はおくびにも出せないが、人妻になったいまもプラトニックに憧れる、愛蔵の言う頭でっかちなお良は、近所のあの夫とこの妻がと顔を思い浮かべるだけで吐き気をもよおすほどだった。それにつけても明治女学校の気風のなつかしさよと、在学中に感じた不満はどこへやら、ひたすら遠い東京の文化を恋しく思うのだった。



 ※当時の時代背景を鑑み、現在では不適当とされる言葉も一部使用しています。




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