第19話 回廊を行く
メルはきょとんとした顔で俺を見ている。自身が感じた違和感より、俺の失態に意識が向いているのだろう、俺の力に言及する様子は見せなかった。
「ど、どうしたのじゃ、ドルンドルンよ」
メルの向こうに真っ赤な夕日が見えた。十歳ほどの少女を前に、逃げ出さんばかりに離れていく男。全く、情けない姿だ。しかし、俺の受けた衝撃はそれほどに凄まじかった。後ろめたい気持ちこそあったが、俺が少女相手に発情してしまったことに変わりはない。
メルのまん丸な目が俺を捉えている。俺はその目を見返しながら、ゆっくりとその場に手を付いて立ち上がった。
「いや、すまない。やはり、自分でもいきなりの不躾な頼みに、ちょっと嫌気が差したんだ。気にしないでくれ」
俺は努めて冷静な態度を取った。そこにはもう俺の動揺はない。
何故なら、俺はこの時、新たな世界の
そういう世界を作れば、俺のこの感情も救われる。その世界では、双方に意思があれば十歳が結婚しても良い、働いても良い、それに癒される者がいても良い。
「そうか、別にアタシは問題ないけど……」
「いや、おかげで俺は大切な事に気が付いた。ありがとう」
清々しい気持ちだった。一つ、自分の殻を突き破った気分だ。俺はこれでもう、堂々と少女に対して興奮しても、それで悔やむことはない。それでいいのだ。
「まあ、お主が良いなら良いが、何にせよ次はそちらの番じゃな。一体何を考えているのだ、そろそろ話してもらうぞ」
端的に俺の考えをまとめるならば、人間を進化させようと思っている、ということだが、果たしてそれを正直に答えて良いものか。少なくとも、彼女はリプリエよりも天界に関して多くの事を知っているだろう。下手なことを口にするのは
「うん。俺も人間たちの神として、メル同様、情けない思いをしている。力はないし、敬われることもないし、そして忙しいというのに、何かと便利屋の如く使われ、休みもなく……」
「うん?」
しまった、愚痴ついでに会社の不満が出てしまった。ただ、それであっても俺の今の感情と大きな違いはない。言ってしまったものは仕方ない。
「ま、まあ、俺もとにかく歯痒い思いをしている訳だ。そこは俺たちにとっても同じであり、ならば目指す方向は一つ、力を得ることだ。……つまり、俺は人間たちの神として、秘密裏に人間たちを進化させようと思っている」
結局、本心を話さなければ、メルを引きずり込むことは出来ないだろう。俺はメルのどんな小さな反応も見逃すまいと、彼女に視線を注いでいた。しかし、どうにも大きな変化は見当たらない。
「うむ、分からぬ話ではない。だが、その為の方法はあるのか」
俺も外回りの経験もある、不信感が出る前に、ここは一気に押すしかない。メルの力はまだ未知数だが、協力者がいるというのは、心理的にも物理的にも、非常にありがたい。
「ある。そして、こればかりは実際に見て、感じて貰わなければなるまい。メル、これから時間はあるか。見せたいものがある、俺の家まで来てくれないか」
「まあ、いいじゃろう」
自分でも大層なことを言っているが、外側だけ見れば、やっているのは幼女誘拐に近い。お菓子を上げるから家へおいで、と言っているようなものだ。だが、メルは間違いなく神なのであって、それらの配慮は無用だと俺は自分に言い聞かせた。
結局、俺はメルを連れて天空の宮殿へ戻り、そのままドルンドルン邸へ足を運ぶことに決めた。
「メル、俺たちはもはや成功するも失敗するも一蓮托生だ」
天空へのエレベーターを昇った所で、俺はメルに向かって、諭すように話しかけた。
「人間を進化させるというのだからな。アタシも少しばかり後ろめたい気はするが、だが基本、管理物の責任は管理者の責任だ。そこの所は考えておいた方が良いぞ」
この幼女、意外に鋭い。当然ではあるがメルは俺よりも神としての経験は豊富だ。その発言はもっともである。
「うん。だから、何かあったらドルンドルンのせいにしてくれ」
もちろん、その言葉が指しているのは俺ではなくドルンドルン本人だ。ドルンドルンはもう居ないかも知れないが、死人に口なしだ。結局、何かあった場合に俺に非難が飛んでくるのは事実だが、そう考えると少しばかり気が楽になる。
「……ほ、ほう、お主、意外と男気があるな。いや、アタシは知っておったが」
何故か得意そうな顔を浮かべるメルを見ながら、俺はとうとうその言葉を口にした。
「メル、手を繋ごう。俺の力を見せてやる」
「えっ、手、手を……?」
メルはためらいつつも手を伸ばした。俺は一回りも二回りも小さな手を掴むと、そのままゆっくりと歩き出した。それにしても小さい。
「さて、これから言うことは他言無用だ、俺はこうして、手を触れている者の存在を消すことが出来る」
俺自身、それを口に出してみて、誇らしいような、それでいて恥ずかしいような気分になった。そもそも何故俺がこのような力を手に入れたのか、そこにグラサンの何かしらの意図があるとは思うが、それはもう考えていても仕方がない。使えるものは使う、それが俺の性分なのだ。
「な、何と! ふふ、やはりアタシの目に狂いは無かった訳じゃな」
「今から俺の家に行く。その間、誰もメルの事を気に留める相手はいないだろう。それで俺の力を信用してくるか」
「あい、分かった」
メルを家に連れていくことは、人間を連れてパンドラへ行く為の予行にもなる。現在、神々の多くは自宅へ戻っている時間だ。神々にも仕事と余暇の感覚があり、多くの者が、俺が元居た世界の人間と同じ感覚で動いている。無論、中には何をしているのか分からない者がいるのも同じだ。
宮殿の外も、地上と同じく夕暮れの風景だった。青紫に近い、薄闇のヴェールが下りている。
ただ一つ、地上と違う点があるとすれば、空気というか、雰囲気が一転して異なることだろうか。まるで、良い子はもう家に帰る時間だと言わんばかりに、刺々しい空気に満ちていることもある。
それは恐怖を煽る一方で、そのような時間が存在することは、俺が人間をパンドラへ移すにあたって、好都合とも言える。俺はドルンドルン邸への空間の門がある地下の一室まで、どの時間、どのルートを通るのが安全か、それなりの見切りをつけていた。人間の存在を隠しているとはいえ、誰にも見つからないのが一番いい。
しかし、その日はどこか様子が違うようだった。
「おい、ドルンドルンよ……」
小さな手を引いて、宮殿の中ほどまで来た時、メルが急に不安そうに俺の名を呼んだ。
「どうした?」
「気を付けろ、何か、いつもと違う気配がするぞ」
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