第7話 中庭の秘事

 彼女の視線の先にはデシフェルがいた。広大な廊下には、先ほどよりも多くの神々が集まっている。ここは未だ低級神の活動区だが、その中を中級神であるデシフェルが堂々とうろついているのだ。その様子は群衆の中で異様な存在感を放っていた。


 マニラはデシフェルと何か関係があるのだろうか。デシフェルといえば、俺が本能的に兄貴分と認めた相手だ。仮に、このお姉さんと対立、もしくは不和があるならば、俺としては少しばかり複雑な気持ちになる。


 しかし、既に俺の心は決まっている。


迂回うかいしましょう、俺はあなたについていきます」


 デシフェルのいる道を避けて、俺とマニラは宮殿内部を奥へ向かった。宮殿の詳しい造りについて、未だ全容が知れないが、とにかく巨大過ぎる。俺がこれまでに見て来た、凡そ全ての建造物とは比べものにもならないほど、規格外の大きさだった。


 やがて俺たちは中庭に足を踏み入れた。敷地内は広く、頭上から降り注ぐ日差しを浴びて、緑が輝くようであった。足元は柔らかい草に覆われており、色とりどりの花が絶妙なバランスで配置されている。


 草花を鑑賞する小径こみちもあれば、さながら森のように、木々が密集して色濃い影を演出する箇所もある。俺たちが向かったのは後者だった。


 視界も悪く、植物が物音を遮っている為か、奇妙に静まり返っている。そんな中、一組の男女が連れ立って歩いている。これが何もない訳はないだろう。警戒を崩すことは出来ないが、自然と溢れる期待を抑えることは出来ない。


 しかし、どういう訳か、不思議とこの世界は俺に厳しい。


「この辺りならいいか。おい、ルナータから報告があったぞ。貴様、昨日デシフェルと何事か接触していたようだな」


 マニラは俺に猜疑さいぎの眼差しを向けた。空気が張り詰め、一気に剣呑けんのんなものとなる。確かに昨日、俺はデシフェルの厚い胸元に進路を阻まれた。それが何か問題があるのだろうか。


 俺は無言のまま、マニラの顔を見つめ返した。ルナータと異なり、こちらはやや異国風の顔付きで、透き通るようなヘーゼル色の目が印象的だった。


 その瞳に導かれるように、俺の中に在りし日の記憶が蘇る。


 過去、インターナショナル系の店にもチャレンジしたことはあるが、やはりコミュニケーションの壁があった。加えて、俺の通っていた土地の性質だろうか、いわゆるパネルマジック、時短、サービス地雷など、他の面で痛い目に逢うことも少なくなく、自然と足が遠のいてしまった。


 それだけに、俺はやや異国人に対し、憧れると同時に、知らぬ間に絶望さえしていた。


 だが、いかなる試練が俺の途上に立ちはだかろうと、簡単に屈する訳にはいかない。マニラの射すくめるような眼差しにひるみつつも、俺は最後まで希望の灯を燃やし続けることを決意した。


「一体どういうつもりだ。何か考えがあっての事か?」


「いえ、そのようなことは……」


 マニラは一歩、詰め寄るように接近した。しかし俺はもう軽くスイッチが入ってしまっている。それは萎縮いしゅくとは逆の効果を生み出した。衝動を煽られるようで、下手な妄想が捗って仕方ないのだ。


 頭を空にして、あなたの艶めかしい香りに飛び込みたい。


 するとその時である。マニラに奇妙な変化が起きた。


「うっ、何だ、これは……」


 俺の視点からでは良く分からなかったが、よく見ると、若干であるがマニラの頬が紅潮している。


「大丈夫ですか?」


「あ、ああ、少し治まった……」


 異常のないことを確認するや、俺はまたしてもその表情に色を感じた。マニラの仕草は、洗練されていたものが、一つ一つ剥がされていくようで、何とも言えない蠱惑こわく的な美しさを生み出している。俺はそれを感じると同時に、強い背徳感を抱いた。そのギャップがまた俺を苦しめる。


 マニラは何かの発作に見舞われたかごとく、苦しんでいるようでありながら、必ずしもそう見えない不思議があった。そう、それはまるで恍惚こうこつの表情にも近い。


 その違いが今一つ見えないのだ。だが、本当に不調であるならば、俺一人で興奮している場合ではない。


 俺はマニラの体調が心配になり、一歩彼女との距離を詰めた。火照りのせいだろうか、マニラの唇が小さく上下に揺れ動き、淡い吐息が漏れ出るのが見えるようだった。


 心配する気持ちをよそに、その様子を見ているだけでこちらも妄想を掻き立てられて苦しくなる。


「気分が変だということに違いはないのだが、しかし、……いかん、離れろ!」


 マニラは強い発声と共に、俺を弾き飛ばした。俺はそのまま、すぐ背後の木に体をぶつけてしまった。


「いたた……」


 俺は背中をそれなりの強さで打ち付けた。大事には至らないだろうが、疼痛により僅かに視線がかすむ。そのせいだろうか、俺は彼女を包む空気が、陽炎かげろうをまとっているかのように、奇妙に揺らいでいることに気が付いた。


「はぁ、はぁ、少し落ち着いたが、まだ何かおかしい……」


 マニラの様子を見ていると、まるで機械のオーバーヒートを思わせるようだった。彼女自身、初めての体験であるように、怪訝けげんな表情を浮かべている。


「何か、湯気のようなものが見えますが……」


「ああ、妙に体が熱いのだ、こんなことは初めてだ」


 マニラは、服の上端を掴むと、パタパタと扇ぎ、胸元を僅かに露出させた。うつむいた加減がまたエロチックであり、俺はもう限界に近かった。


 妄想を止めることが出来ない。俺は頭の中で、すかさずマニラの胸元に手を突っ込んだ。


「くうんっ」


 瞬間、マニラの喘ぎ声が唐突に響いた。




― ― ―。




― ― ― ― ― ―。




 ちょっと待てよ。


 俺は瞬時に冷静さを取り戻し、頭を巡らせた。同時に、リプリエとの会話を頭の中で再生する。


「あなたには特別な力を感じる。さっき、特に強い力を感じた瞬間があったのだけれど、あなたが何かしたの?」


 それは、俺がリプリエの体に興奮を覚えた直後であった。


 やがて、その言葉と、眼前のマニラの様子を交え、俺は一つの仮定に達する。


 これは、もしかして俺の感情のたかぶりが原因ではないのか……? ならば俺は全霊を掛けて、気を鎮めなければなるまい。容易なことではないが、他者の健康がかかっているのだ。


 俺は木に背中を預けたまま、そっと目を瞑り、とある山中に眠る、静寂な湖を思い浮かべた。風がそよぎ、草木が軽やかに揺れている。鳥が高らかに歌い、小動物たちが俺を取り巻いている。そこには何の不安もない。俺は想像の中で座禅を組みながら、神経を穏やかなものにしていった。


 いい感じだ。もし俺の予想通りならば、これできっと彼女も少しは落ち着いただろう。俺は聖者のように安らかな気持ちで、そっと目を開く。

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