第13話 天上に潜む影

 いずれにせよ、俺はこの世界に関して、確かな方向性を得た。リプリエもそのことを意識したのか、一つの提案を投げて来た。


「あなたの中にはこの世界をどういう形にしていくのか、というビジョンがあるのよね。そろそろこの世界に名前を付けましょうよ」


 人の進化を促し、享楽の場を作るのだ。清濁併せ呑む、そんな覚悟が必要だ。


 俺は予め考えていた名前を告げた。


「パンドラ、という話を聞いたことがあるか?」


 リプリエは素早く首を振る。


「ないわ。それが名前? ふぅん、あなたにしてはオシャレな響きを思い付いたわね」


 これはもちろん、ギリシャ神話におけるパンドラの箱からの連想だ。それは全ての悪が解き放たれる箱であり、同時に一つの希望が残された箱。この世界の可能性は未知数であり、希望と危険が同居している。パンドラの箱よろしく、善悪いずれが潜んでいるか分からない。


 ともすると名前負けしそうだとも考えていたが、リプリエの賛同は俺の行為を後押ししてくれているようで、素直に嬉しかった。


「そうだろう、俺もなかなか良い言葉を思い付いたものだ」


「パンドラか、うん、良いよ、綺麗な響きね」


 リプリエには言えないが、エロス的な響きとして考えても、その単語は非常に大きな魅力を持つ。そう考えると、リプリエの輝く表情を前に、幾ばくかの罪悪感を覚えないこともない。


 俺は、今後、パンドラという店名を名付けると、少々面倒な事になるななどと妄想を思い浮かべながら、リプリエに別れを告げ、パンドラを後にした。


 その夜、俺はじっくりと休息を取ることにした。夜中、マニラの妄想に悩まされたが、何とか眠りに就いて、無事に翌朝を迎えた。


 それもあってか、朝起きると奇妙な疲労があった。現在、俺は強制的に禁欲的な生活を送っている。マニラ、リプリエに与えた影響の正体が分からないのだ。俺が賢者となることでいびつな変化を迎え得るのなら、差し当たって下手な変化は避けたいという思いがあった。


 一人でするとしても、むしろ辛くなるばかりで、根本的な解決にはならないだろう。風俗産業をおこし、性欲を安定して発散させられるようになるまで、今しばらくはこの苦しみに耐えなければならない。


 ドルンドルン邸はその朝も不思議な空気に包まれていた。朝晩により室内の明暗は自動的に調整されるようで、内外の様子も変わる。


 思えば、昨日、一昨日と疲れ果てたように眠ってしまったが、俺は改めてドルンドルン邸を探索するべきなのかも知れない。ドルンドルンは本当にうだつの上がらない、物静かな下級神だったのだろうか。


「まあいいか、そのこともやがて明らかになるだろう」


 優先事項はパンドラへ人間を移動させることだ。また、それは早ければ早いほどいい。


 俺はドルンドルン邸を後にすると、宮中に入った。


 当たり前だが宮中には神々しかいない。地上の動物がこの地を踏むのは、素人目にも許されない事だと推測出来る。仮に人間を地上から連れ出すことが出来ても、ドルンドルン邸に戻れないことには意味がない。


 宮殿内は豪勢な造りでありながら、無駄な造りはなく、抜け道や隠し通路のようなものも見当たらない。もっとも、前知識もなく、俺のような素人が見て、それらが見つかるのも考え物ではあるが。


「ドルンドルンよ」


 宮中を歩きながら、とある部屋に足を踏み入れた時、俺はふと、どこからかやって来る、密やかな男の声を聞いた。周囲の人影はまばらで、その日は心なしか穏健な日であった。俺を見て嫌味な眼差しを向ける者もない。彼らは彼らで自由な時間を過ごしている。その者らの声ではなさそうだった。


 声を無視するつもりはないが、どこで発声されているのか分からない。俺は室内を進み、周囲を見回した。


 室内は天井が高く奥行きもある。豪勢なシャンデリアや、金箔が施されたテーブル、象嵌ぞうがん細工の施された椅子など、内部の調度品は装飾から材質まで一級品であった。


 絵画もある。四方の壁面には季節を描いた絵画が展示されていた。装飾は天井にもあり、ドーム型の形状を上手に利用して描かれている。


「こちらだ、ドルンドルンよ」


 思うに、声は不思議な響きを持っていた。俺が最初にパンドラへ足を踏み入れた時に聞いた、脳内に直接働きかけて来るものの感覚に似ていた。


 まさか、上か……?


 俺は遂にその気配を捉え、ゆっくりと視線を持ち上げて天井を見詰めた。そこには、落雷、渦、火炎などの現象を操る、神々による熾烈な戦闘を描いたフレスコ画があった。


 俺はその絵画の中で、一人の人物の顔が不自然に盛り上がっているのに気が付いた。


 異様な光景だった。天井まで約十メートル。その天井に描かれた絵画の中から、一人の男が顔を覗かせているのだ。


 その男の様相がまた少しおかしい。顔だけしか見えないが、SFモノに出て来そうな、細身でスタイリッシュなサングラスをかけている。髪は短い金髪。


 シュールな構図だ。俺はその者と目が合ったまま、固まってしまった。


「どうした、ドルンドルンよ」


 その者の口は動いているが、声は脳内に響くように、平常の音の伝わり方とは異なっているようだ。


 我ながらドルンドルンという名前を連呼されると、下手な催眠術を掛けられているような奇妙な感覚を覚える。しかし俺にどうしろと言うのだ。周囲に他の神々がいるというのに、ここで大声を出して会話をしろとでも言うのだろうか。せっかくまともな奴らが集まっているというのに、自ら好奇の目を呼び起こさなければならないのか。


 俺はやはり押し黙ったままだった。しかし、そうしてはいられない事態が発生した。その者の口から、聞き逃せない単語が飛び出したのだ。


「いや、ドルンドルンの姿をした者よ」


 俺の正体に気が付いているとでも言うのだろうか。俺は呆気にとられたまま、ただその絵画の顔に視線を注ぐしかなかった。


「安心しろ、俺は敵ではない。貴様に渡すべきものがある。絵画の『春』に手を触れてみろ」


 周囲を見渡すと、長方形の室内には、左回りに四季の移ろいを描いた絵画が展示されている。室内には数人の神々がいるが、どれも俺や絵画を気に留めている様子はない。俺は音もなく『春』の絵画の前に身を置いた。


 春に触れる……。どことなく淫靡いんびな響きだ。俺は唾を飲み込んだ。


 絵画、『春』の構図はこうだ。春の古城、穏やかな陽が降り注ぐ庭園で、一組の男女が向き合って軽食を取っている。脚を組んだ女の太ももが僅かに露出していた。俺は少し興奮しながら、その部分を撫でるように手を触れた。


 すると、ふわりとした風が俺を包み込んだ。何かが流れ込んでくるイメージがあるが、実際に何かが起こった感覚はない。


 時間にすれば一秒と経過していない。だが、俺は何かに目覚めたような感覚があった。性ではない、別の物だ。


 俺は再び中央に戻り、目立たない程度に視線を持ち上げる。顔は相変わらず突出していた。


 最初はその不気味さに腰を抜かしてしまいそうだったが、実際の脅威がないと分かると、滑稽なおもむきさえある。神々の戦いを描いた荘厳な絵画の中から、サングラスをした男の顔だけが飛び出ているのだ。しかもそれが妙に威厳たらしい。


「よし、受け取ったようだな。それは期待を与え、そして絶望をもたらし得る力。その一部を分け与えよう。気を付けろ、無限ではないぞ、上手く使うが良い」


 それだけを一方的に告げると、顔はにゅっと絵画の中に引っ込んでしまった。

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