第39話 夜月

 まだ近隣の食事処は開いておらず、その空腹の女は、普段俺たちが利用している長屋の一室で食事を取っているとのことだった。


 万次郎は商人として小規模な商売を展開している。それほど多くの使用人も持たず、腹心としてのトシがいる程度だ。そういう意味で言えば、弥吉と比較するべくもない。


 だが、一つだけ万次郎に特殊な点があるとすれば、代々の家系というか、受け継いで来たものだろうか。


 元をただせば万次郎の家系は神職であった。今でこそ、その肩書は薄れ、万次郎自身もそれほど意識も活動もしていないが、しかしそれとなく地元に対する影響力は残っている。大通りの土地を預かっていたのもその為である。


 そして現在、そこの土地は貸し出し中であり、その土地の扱い方で少しばかり弥吉とトラブルを交えていたのだが、それが先ほど、一応の解決をみた形となった。


「入るぞ」


 俺が室内に入ると、一人の女性がもぐもぐと口を動かしていた。


「……うっ、ごほっ、ごほっ」


 その婦女子は、食事に箸を付けていたのだが、俺を一瞬見て焦ったのか咳込んでしまった。服装はみすぼらしく、元の色が分からない程に色褪いろあせ、汚れ切っている。顔付きは化粧っ気もないが、顔の造形自体はそれ程悪くない。


「あ、焦らなくていい、ゆっくり食べてくれ」


 女は喉に食事を詰まらせて、やや涙ぐみながらも、俺を一目見ると、少し微笑んだように見えた。その顔は何ともはかなく、男であれば一種の庇護欲ひごぎよくを刺激されるだろう。それは遊女として大事な感性を備えているとも言えた。


 俺はこの女を店で雇い、遊女の第一人目として働いてもらおうと考えている。その為に、身寄りがないと思われる女性をトシに探させていたのだ。


「それで、あの女はどういう経緯で拾って来たんだ?」


 少なくとも万次郎の記憶にあの女性の姿はない。ついさっき、初対面を終えたばかりだ。


「へい、こんな時間に河原で寝込んでいたんですよ。まあ、兄貴に言われた後でなきゃ、そのまま通り過ぎる頃でさあ。でも、あれを一体どうするんですかい」


 中央集権的な国家色が強まり、時勢に外れた者は容易たやすく生存の憂き目に遭ってしまう。それは、ここより一時代前の、村や集落が一つの生存単位となっていた頃からすると、より個人主義に傾いた結果だと言えるだろう。


 だが、それの善悪を考えた際、決して全てが悪い訳ではない。少なくともそのような時代を経なければ、資本主義の到来はなく、俺が希望する、金さえ払えば誰でも遊女と遊べる時代は来ないのだ。


「化けさせるのさ」


「はあ」


 さて、構想が固まるにつれ、そろそろ店名を考える段階になって来た。


「トシ、俺はこれから、男性が女性の時間を買って、奉仕させようという店を作る。俺の構想を完全に実現することは、当然ながら難しいだろう。だが、お前には俺の後を継いで欲しいんだ。それにあたって、その店の名前を決めようと思う。何か思い付くものはあるか?」


 実際問題、トシに一任するというよりは、トシを中心とした商人たちに、運営を任せるといった方が正しい。とにかく、彼らが何か名付けた方が、愛着を持ってその後の発展をスムーズに出来る可能性が上がると思われた。


「そう言われても、女傑じょけつそのとか、花乱れとかしか思い浮かびませんよ。あんまりイメージ出来ませんし」


 それにしてはセンスがいいのではないか、と思ったが、確かに実感が湧かないのは事実だろう。ただ、大事なのは彼らが愛着を持ってくれるものだ。


「風流さで言えば、花乱れは悪くないな。それで行こう。系列店もそういう方向で進めやすい」


 さて、俺たちがそうやって今後の方針を練っていると、女中の一人が室内に入って来た。これまでは手伝いの女中であったが、今後は『花乱れ』を切り盛りすることになるかも知れない。


「旦那様、あの者の身支度が整いました」


 男女に対する意識の隔たりがある。それは時代を下る毎に混ざり合っていくのだが、初期は立場や役割がしっかりと別れており、互いの意識には、一線が引かれているおもむきがあった。


 そのような中で、やはり風俗業というのはそれなりに反発もあるかも知れない。もし、俺が神という立場を合わせ持っていなかったならば、恐らくこのような業態を思いついたとしても、実行には移せないだろう。


「ありがとう。特に苦労はなかったか? 彼女はこれからのことを受け入れてくれそうか?」


「はい、物分かりも良く、どうして川原に居たのか分からないほど、どことなく不思議で奥ゆかしい娘ですよ。ただ……」


「どうした、何か問題があったか?」


「食事して湯浴みをして、それからお着替え、お化粧。一連の流れで疲れてしまったのでしょう、不意に眠りけてしまいました」


「まあ、これからハードになる可能性もあるからな。色々と張り詰めていたんだろう。とりあえず、そのまま花乱れに運ぼう」


 俺はその遊女の源氏名を夜月よづきと勝手に名付け、数人で花乱れへ移動した。


 午前十時ごろ、花乱れはさながら大工事の真っただ中だった。特に特徴のない屋敷を風俗店に改造しようというのだ。それも数時間で。弥吉が陣頭指揮を執り、無表情な一軒家にてきぱきと色を付けていた。


 弥吉は俺たちを視界に入れると、作業の手を止めて俺たちの元へやって来た。


「おいおい、なかなか物騒な事をしているな。大丈夫なのか」


 着物姿の女を担いで集団が歩いているのだ。手段は選べないとしても、確かに誤解を与えかねない。


「むにゃ、むにゃ」


 夜月が何事か幸せそうに寝言を呟いた。それを見て弥吉は小さな溜息を零す。


「まあ、何をしようがお前の勝手だがな、商工会の方でも、そこまで厄介な面倒は見切れんぞ」


 俺はトシたちに夜月を抱えたまま先に屋敷へ入るように促すと、弥吉と相対した。


「ふふ」


「何がおかしい?」


 弥吉は不思議なものを見るような眼差しを向けて来る。


「商工会か。いや、恐らく、新しい枠組みが必要になるかと思ってな。その為には、最初は少々汚いことをしなければならないかも知れぬ。頼りにしているぞ」


「何だ、本当に頭でも打ったんじゃないのか、気持ち悪い奴め」


「この事業にはな、お前とトシとが中心になる」


「うん? ならば万次郎、貴様はどうするのだ」


 俺は礎を作る。作るには作るが、しかしだ。大事なのは、俺はそのエンターテインメントを享受するのであって、提供する側になりたいのではない。故に俺は、店や組織の裏事情を知らず、ふらっと訪れて、そして新鮮な驚きを味わいたい。その為には、俺が事業に関わるのは最低限にしたい。


 つまり、ネタバレを防ぎたいと言うことだ。遊女が本当はどういう性格で、どういういきさつがあって職に就いているかとか、そういうのは一種のファンタジーであって欲しい。俺の想像の中で存在するか、もしくはそのような実際的な暮らしを見せないほど、遊女として、立派な振る舞いを俺に見せて欲しい。


 俺は風俗店の調査が好きだ。だが、特定の店舗やサービスに長く入り浸ったりはしない。それの醍醐味は刹那的なものであり、非日常であるべきなのだ。


 ある一夜の出来事、それで十分なんだ。翌日か数時間後には生まれ変わり、俺たち社会人は戦場に飛び込んでいく。


「どうもしないさ、まあ深い意味はない。交わる毎に、古い自分を脱ぎ捨てて成長していく。それが、俺の望む風俗だ」


「……万次郎、お前は本当に何を言ってるんだ……」


 弥吉の疑いの含んだ眼差しを見て、俺は考えた。そうだ、先駆者とはこういう者だったのかも知れない。今まで俺には縁遠いものだったが、初めてその気持ちの一端を知ることが出来たような気がした。

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