第40話 身分

「兄貴、これはどこへ移動します?」


 弥吉やきちとの込み入った会話を終えた俺は、花乱れの店内を見回りしていた。作業の方はトシに任せてある。


 内装。それほど派手にする必要はないが、受付や待合室にも、一種の非日常感が必要になる。視認性は低く、それでいて怪し過ぎてはいけない。こればかりは俺の長年の経験が必要になる。


 屋敷の中外では数人の男たち、それぞれが同程度の人数が働いていた。そして、慌ただしく変化していく屋敷の周囲には、いつの間にか見物人が徐々に集まり始めていた。


「……とまあ、そんなところだ」


「なるほど、兄貴の作りたい物が朧気おぼろげですが見えて来た気がします。しかし、昨日までこんなこと、一言も言わなかったはず。まさか、誰にも言わず、たった一人で、長年温めていたっていうんですか!?」


 トシの眩しい視線がむず痒いようでもあり、痛いようでもあった。


 風俗に足繁く通うしがないサラリーマン。俺を形容するのなら確かにそれで間に合う。だが、その俺が今、世界の発展を引っ張っているのだ。ドルンドルンや神としてではない。ここにいるのは、間違いなく裏袴風好、俺自身なのだ。


 俺はなかなか無い経験を前に、やや照れながら、少しトシから視線を外して語り出した。


「いいか、歴史を切り開く者や、過去の慣習にとらわれない者には、いつの時代でも逆風が吹きすさぶ。故に、確固たる決意、もしくは強い成功への先見性を見出すまでは、じっと……」


 するとどこからか声が飛んで来る。


「トシさん、急いでこっち来て下さい~!」


「おう、行くぜ、あ、兄貴すみません、では」


「……あ、ああ、任せたぞ」


 あいつちゃんと聞いてたのかな、という疑問を抱きつつ、俺は気を取り戻して夜月のいる二階へ向かう。


「さすがにこの物音だ、もう起きているだろう。とはいえ、室内は薄暗い。甘い見立ては厳禁だ」


 わざとらしく、しかし慎ましい足音を立てながら俺は襖戸ふすまどを開け放った。すると微かな寝息が聞こえる。


 俺はこの夜月を、可及的速やかに、遊女とするべく育成しなければならない。講習というほどのものはできないが、まあ心構えやちょっとした流れを教えるだけだ。


 だが、何と言うかな、着物を着た婦人がそこに無防備な様で寝入っているのだ。俺はその場で腕を組み、考えた。


 俺自身の快楽を重視するという道もある。しかも、それは俺の目的ともたがわない。このまま寝込みに飛び込み、夜月の秘部を愛撫するだけで、それは手っ取り早い教育にもなるだろう。


 迷う必要はない。


 俺は気付かれないようにそっと布団の脇に座り込んだ。


(思えば長かった。大きさはそれとして、胸を触ることが出来たが、下はまだだった。そして今、遂に俺は花園へと手を伸ばせるのだ)


 夜月の静かな寝息とは逆に、俺は鼻息を荒くした。ゆっくり、肌への摩擦を起こさないように、布団に手を入れ、静かに夜月の柔肌へ寄せる。


 だが。


 俺の思惑に反し、ここで俺の手に激しい抵抗があった。


(バ、バカな、何の問題がある!?)


 すかさず俺は万次郎の記憶を辿る。答えは彼の奥底で見付かったようで、しかし今一つ、俺のような者には納得がいかないものでもあった。


 どうやら万次郎は妻帯者であるが、今でいう単身赴任状態のようだ。そして彼のような立場は、何かと敵対者の存在が見え隠れしている。故に、妻に被害が及ばぬよう、及び下手な憂慮を抱かぬよう、妻帯者であることを隠していた。


 そして、その強力な虚実の意志は、もはや彼にとって真実となりつつあったのだ。


 人一倍妻を想っていると来た。不貞ふていなど働きようがない。


 くそったれ、またもや制約か……。


 しかし、それが不思議と俺に安心を与えたのも事実であった。そもそも俺は時間に追われている。ここで下手に情事にふける訳にもいかない。いつ俺の意識が万次郎から離れてしまうとも限らないし、その前に少しでも風俗のシステムを、この世に刻み込んでおかなければならない。


「おい、夜月、起きるんだ」


「むにゃむにゃ、もう夜ですか、月が出た……?」


 そう言えば俺は夜月の本名さえ知らないまま、勝手に夜月と名付けたのだ。相手からすれば寝ぼけるのも無理はない。


「そうだ、夕餉ゆうげだぞ!」


「……えっ、もう!? 食べます、食べます!」


 夜月はおっとりしており、母性を醸し出す、癒し系の女性であった。それでいて本人の性格も明るく、接しているだけで力を貰えるような不思議がある。特に太ってもおらず、出る所は出て、引く所は引いている。食事に執着が見られるのは、やはり行き倒れに近い状態を経験したからだろう。


「なるほど、そのようなことが私の身に……」


「なるほどって、自分の身に起きたことだぞ……」


 俺は夜月にこれまでのいきさつを掻い摘んで話した。朝方に食べたものの事は覚えているが、湯浴み、着替え、化粧などは予想通り、夢半ばで過ごしたという。


 そして、俺は彼女のいきさつを改めて聞いた。


「私、お暇を出されたんです。事情があって実家にも帰れず、困っておりました」


 離縁はそれほど珍しいものではない。特に貴族や身分の高い者達の間では、政略結婚や周囲の状況により結婚が執り行われることも多く、特別な感情を抱かないまま婚姻生活を送ることもある。


 夜月も元々は、それなりに身分の高い女性だったのかも知れない。そのような者を水商売に落とし込むのはなかなか心苦しいものがあるが、夜月が存外やる気であることが、俺の背中を後押しした。


「思えば、殿方に求められることもありませんでした。結局、私は二の次三の次という有り様で……」


「約束しよう、この店はきっと高級志向にする。客層も良いものになるだろう」


 遊女を守るのは互いの為だ。俺たちは互いに理解を深めながら、夜月との会話の中で、花乱れの経営コンセプトを更に洗練させていった。


 とはいえ、俺たちだけの事情で店が成り立つほど単純な時代ではない。


 その点、弥吉側には、いわゆる裏社会とも言える者達との橋渡しも頼んであった。最初はいぶかし気に俺の話を聞いていた弥吉だが、次第に熱を帯びるようになっていた。


 俺は弥吉との会話をぼんやりと思い出す。


「……万次郎よ、なかなかどうして、悪くない話に聞こえるから不思議だな」


「当たり前だ、人間にとって、性とは非常に大事なものだ。それを知ることもなく死んでいく奴もいる。だが、しっかり働いて、少しばかり真面目な生活を送れば、少なくともその一端に誰もが触れることが出来るんだ。延いては社会を回す力になる」


 そして俺は改めて夜月に向かい合う。そして柄にもなく、さとすように言い聞かせた。


「しかし、好き勝手やっていても駄目だ。もちろん店内での決まり事もある。最初は少しばかり苦労するかも知れん。出来そうか?」


 夜月は静かに頷いた。


 しかし、実際に男とどういうことをするのかと教授しようと思っても、万次郎の意志は貞操感は強く、下半身を露出することさえ難しい。


 俺の精神、頭は既に夜月に対してそれなりの興奮を覚えている。だが、万次郎の精神がそれを拒むのか、一向に勃つ気配もないのだ。


「こんな頑固一徹な男が世にいたとは、全く尊敬さえ覚えるな」


「……万次郎さん?」


「あ、い、いや、こっちの話だ」


 講習などしなくても良いという話があるが、ただ、やはり多少は現代的なテクニックを仕込む必要はあるだろう。


「仕方ない、トシに任せるか。あいつは独り身のはずだ」

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