第44話 十七文字
俺は店の裏手に出ると、そこから更に東へ向かった。そしてちょうど草原の入り口の辺りで、周囲に誰もいないことを確認すると、大きな声でリプリエの名前を呼んだ。
「リプリエーっ!」
やや間があって、少し離れた地点に眩い輝きが見えた。俺はすぐさま光の元へ小走りで向かう。
「そう言えば、こうしてパンドラ内で向こうから呼ばれるのって、何か不思議な感覚だわ、どうしたのかしら。……あ、今度はその姿なのね、ドルンドルン、どうしたのよ」
リプリエは普段の俺とは異なる雰囲気を察して、彼女自身のいつもの調子を改め、いつになくシリアスな空気を醸し出した。
「パンドラの出口へ向かいたい。出来るか?」
「その体のままでいいの? と、聞いても仕方がなさそうね。分かったわ。前も言ったかも知れないけど、あなたを連れて転移するには、パンドラの力を結構使うけど、構わないわね」
「ああ、パンドラの危機だ。そして俺の危機でもある。リプリエ、今まで世話になったな。改めて礼を言わせてくれ」
「ちょ、ちょっと、どうしたのよ、突然……!?」
「すまないが、今は少しでも時間が惜しい。あの店舗にグラサンがいる、後は奴に聞いてくれ」
俺は花乱れの方角を仰いだ。すると、店がいつの間にか赤く染まっている。それを受けて、俺の頭に自然と浮かんで来たものがある。
夕暮れや 真っ赤に染まる 花乱れ
我ながら上手いものではないが、思わず一句詠んでしまった。
今少しあの雄姿を目に収めておきたかったが、ゲイドリヒがどう出るか分からない。奴と宮中で会うことが出来れば、俺だけの被害に収められる可能性もある。もしパンドラの存在を勘付かれたなら、被害はパンドラに及ぶ。それを避ける為なら、俺の存在など安いものだ。
「それじゃあ目を閉じて、意識を空っぽにしてね。……失敗すると別々になるから」
転移ということで、視界がどういう風に変化するのかとか、色々と気になる点はあったが、別々になるという表現が怖すぎる。別の地点に行くとかなら良いが、肉体やら精神が離れるという、身の毛もよだつような想像を掻き立てる、良い脅し方だ。俺はリプリエの言う通りに、しっかりと目を閉じることにした。
それから、体が前後左右に揺さぶられる感覚があったが、気が付いた時には、既に感覚は落ち着いていた。
「成功よ」
俺はおもむろに目を開く。草原の中に一つの空間の薄暗い幕がある。それは怪しくも神秘的な色合いで輝き、夕暮れの中であっても十分に視認できるものだった。
「ここは……」
「この空間は、パンドラの内部と同じようで決して異なるものよ。迷いの森、っていう表現があるでしょう? ここは、普通の人間たちならば、この空間を飛び越えて、あっちとこっちへ抜けていくだけの空間」
リプリエの言葉はどこか寂し気で力が無かった。俺ももう少し話をしていたかったが、その余裕はなさそうだった。
「それじゃあ、ちょっと行って来る。……またな」
俺は別れらしい別れが辛くて、その場から逃げるように空間の門を潜った。
「あっ、ちょっと……!」
リプリエが何かしら俺を呼び止める声が微かに聞こえた。無論、俺もここへ戻りたいという希望がある。だが、俺の命とパンドラの世界を天秤に掛ける事が出来るとして、そこに俺の命だけが助かる選択肢もないのだから、何を迷うことがあるだろうか。
俺はいつの頃からか、自らの命より、パンドラを優先するようになっていた。
俺が死ぬということは、どこかにいるという、ドルンドルンの魂も消え去ることになのかも知れない。グラサンの話だけでは、本当のドルンドルンについて、分かったようで分からなかった。ただ、ドルンドルンが何かしら人間に重きを置き、その繁栄を考えていたのは事実のようで安心した。
きっと、俺の判断をドルンドルンも許してくれるだろう。
空間の門自体はすぐに抜けられた。俺はそのまま異次元の中で、一つのドアを開ける。これを開ければ自宅内のタペストリの裏に出る。
結果、俺は無事に自宅のリビングに戻ることが出来た。そしてそこから僅かに歩いた所で、最悪の事態に見舞われることとなった。
……!
「ほう、これは驚いた。ここへ来て私にも運が向いて来たようだな。何故か姿が違うようだが、何かのまやかしの一種か? まあ、どうでもいいことだ」
運に見放されたのだろうか。ちょうどリビングを出た所で、まさかのゲイドリヒと対面した。相変わらず玉筋部長を思わせる面構えで、堂々とした様で立ちはだかっている。
恐らく、俺を探して室内に足を踏み入れた所なのだろう。ただ、とりあえずパンドラの命は首の皮一枚で繋がった、と見ていいものか。しかし、以前とは全く異なる強烈なプレッシャーに、思わず足が竦む。
とはいえ、ここをどうにかして切り抜けなければならない。俺は必死に考えを巡らした。
「ゲ、ゲイドリヒ様、よかったらお茶、いや、ネクタルでも如何ですか……」
この手のタイプはまず酒が好きだ。何にせよ、いきなり戦うのでは何の勝ち目もない。また、少しでもパンドラから意識を逸らす為、出来ることはなんでもしなければならない。
だが。
「要らぬ。私の決意は変わらない。君が何をどこまで知っているかは分からないが、私がここにいる意味が分からないでもないだろう」
取りつく島がない、とはこの事だろう。ゲイドリヒは俺から目を逸らさず、常に厳しい目を向けている。
どこまで出来るかは分からないが、やるしかない。俺は静かに、相手に決して気取られぬように覚悟を決めた。
そう、そのつもりだった。
しかし相手は上級神だ。全ての者が、アンプル程ではなくとも、メル並の感知力を持っていると思って良いのかも知れない。
「ふむ、どういう訳かは知らぬが、この間、宮中で見かけた時からすると全く別人のような力が窺える。だが、その程度では何にもならぬ。下手な抵抗は止めることだ」
ゲイドリヒの瞳が怪しく光った。俺は確かにそれを目撃したはずだった。だがその次の瞬間、俺の視線はどういう訳か彼の足元にあった。俺はいつの間にかその場に
「ぐう……」
「神々というのは、なるべく無駄な戦いを避けることにないようになっておる。力が
頭上から重苦しい空気で押さえつけられているようだ。身を起こすことも出来ない。
これが上級神としての絶対的な力なのか。そしてゲイドリヒはその中でも更に上位にあると言う。確かに、この現実を目の当たりにしてはその言葉も頷ける。
とはいえ、これは俺自身が臨んだ結果だ。俺の目的はパンドラを生かす事。パンドラの存在に気付かれない限り、俺が下手に戦う必要はない。寧ろ、そうなると変な疑いを掛けてしまう結果になりかねず、無抵抗を貫いた方が結果的に良いのかも知れない。
しかし、ゲイドリヒを前に、何かを隠し通すことなど出来るだろうか。それは相当に困難なものであることを、俺はすぐに痛感させられた。
「ふむ、君の力の源は、この先にあるようだな。何もかもが、存在するからこそ面倒な処置が必要となる。無であれば誰も困らない。ああ、面倒だ」
無情な足音が、俺の横を静かに通り過ぎようとした。
しかし次の瞬間、俺の手は横を通り抜けようとするゲイドリヒの足首を、半ば無意識の内に掴んでいた。
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