第8話 貴男の幻影

「……まさか、君が何かしているの……?」


 目を見開くと、色っぽい姿はそのままに、いつの間にかマニラが前進して俺との距離を縮めている。マニラは憔悴しょうすいの為か、腰を軽く折り曲げて、憂いを帯びた瞳で俺を見据えていた。屈んだことにより、服の隙間が更に露わになり、少しだけ胸元がはだけている。


「マ、マニラさん……?」


 強烈に視線が吸い寄せられる。だが、ここで興奮するわけにはいかない。


「くっ、またか……? いや、少しだけ落ち着いたか」


 俺は呼吸を意識し、必死に劣情を抑えていた。


「そうか、ようやく気が付いた。この、苦しくとも、どこか力が溢れて来るようなイメージ……。もしも、これが君の所業だというのなら、これは大発見だ」


 マニラの声は落ち着きを取り戻し始めていた。彼女は服装の乱れに気が付くと、布地を持ち上げて帯を締め、表情を整えた。


 だが、彼女の容態が改善して、安心したのも束の間。俺はマニラの言葉の持つ意味を考え、密かに戦慄せんりつした。


 俺は嬉しくも、恐ろしい想像を浮かべた。もし、この現象が彼女に何かしらの力を与えるとするのならば、それが今後、どういう形で利用されるか分からない。


 仮にこの情欲が何かに利用されるのならば、それは男にとって生殺しを意味しかねない。男は、一度果ててしまうと、そこから回復するまでの間、しばらく無力になってしまう。故に、いかにして持続的にその力を搾り取るか、それが大事になるだろう。


 それは俺の欲望の一つでもあることは否定しないが、俺は人生において、自らの倫理観、そして忍耐力とのバランスを重要視している。そういう気分である時はそれを楽しむが、常にそういうものに浸っていたいとは思えない。


 俺は女性の素晴らしさを知っている。だが同時に、その厄介さと、それに引きずられ、溺れる愚かさを知っている。


 身勝手と言われようが、俺は性に対する距離感、接近性は自らで管理したいのだ。そこだけは譲る訳にはいかない。


「何か勘違いされていませんか、俺にそんな力はないですよ」


 今、俺の欲情が、彼女の精神、肉体の向上に繋がるという仮定がある。俺はこの場でそれを否定しておかなければならない。


 俺とマニラの距離は一メートルとない。ギリギリの所で押し留めているが、この状況を前に、俺の我慢ももはや張り裂けんばかりだった。既に自らが劣勢であること、それは認めなければならない。


 とはいえ、自身の敗北を認めた上で、交渉を切り出せば、このまま接近して、非常に良い思いが出来る見込みはある。抱き合うことなど造作もないだろう、彼女の濡れた瞳がそれを物語っている。


 俺はその栄光の道に背かなければならないジレンマを抱えていた。


 マニラが小さな吐息を混ぜながら言う。


「どういう理屈で、そして、君が何をしているのかは分からないが、私自身が自分の変化に気付かない訳はないよ……」


「何か、他に理由があって、一時的に感覚が変になっているんです。俺もたまにそういうことがあります!」


 言葉での説得は難しそうに思えた。何かきっかけを掴まなければならない。


「こういうのは距離に比例するものだ、試してみよう……」


 言うが早く、マニラは俺との距離を一段と縮めに掛かる。俺は引くに引けず、覚悟を決めた。


 男というのは、時に自らの物欲、性欲などといった欲望に対し、制御が利かず、暴走してしまいがちである


 それは俺にも経験がある。よくある話ではあるが、電車などで不意に女性と接触して、敢え無く反応してしまうこともある。


 だが、俺は、そこを確固たる意志の力で乗り越えて来た。


 俺はマニラのかぐわしい香りに戸惑いつつ、自らを落ち着かせるべく、あらぬ方向に想像を走らせた。


 端的に言えば、デシフェルの厚い胸板を思い浮かべたのだ。俺はまだノーマルで、そちらの気がないのが幸いだ。そして、ここを乗り切るには、生暖かい記憶に頼るしかない。


「どうですか、何か変化はありますか……?」


「ん……」


 マニラが自らの感覚を確かめている。その間も俺たちは至近距離で見つめ合っている。


 俺はマニラの顔にデシフェルの顔を重ねた。さすがにマニラの体、その全てをデシフェルに置き換えるまでの想像力は持ち合わせていない。この状況を打開する為に、下手に視線を逸らすことも出来なかった。持ち合わせているカードで戦うしかないのだ。


 脳裏にイケボがこだまする。


「おいっ? おっと」

「後は任せな。少なくとも、宮中は平和であるべきだ」

「うん、何か言ったか?」


 俺がデシフェルと交わした会話は少ないが、それらを角度を変え、声量を変え、擦り切れるほどに繰り返した。


 妄想は次第に激化する。そして遂に、妄想の何度目かのこと。俺が胸元にぶつかった際、デシフェルは俺を抱き締めると、そのまま……。


 俺は自分の息が熱を持っているのを感じた。それはあらぬ興奮の為でもあり、俺自身にも限界が近い事を意味していた。


「……ううむ、先ほどのような感覚は生じないな」


 マニラは依然として何かを考えながら、僅かに遠ざかった。その動作を見逃さず、俺も気付かれない程度に後ずさる。


 一度山を乗り越えれば、当分の間は大丈夫だろう。俺はデシフェルの幻に礼を言うと、意識を通常のものに切り替え、マニラに対応した。


 マニラは淑女だ。普段ならば不用意に自分から接近したり、胸元をはだけさせることはない。その後、俺の中で、再び波が荒立つことはなかった。


「まあいい、私も何となく気概が削がれてしまった。とにかく、デシフェル始め、不穏な動きをしている奴らに対し、迂闊うかつに近付くのは自重してくれ。君だけの体ではないのだぞ。いいな?」


「はい、分かりました」


「それではここで別れよう、私はこっちだ。またな」


 マニラは特に名残惜しそうでもなく、とてもカジュアルな様子で去っていった。俺はと言えば、短時間に生気を吸い取られてしまったようで、しばしその場に呆然と立ち尽くした。


 しかし疲労の原因はそれだけではない。ここに来て、新たな壁が出現した。


 今後もし、俺と誰かが良い雰囲気になったとして、俺が興奮すればするほど、相手は熱暴走のような不調を起こしかねないのだ。つまり、その者の健康と、俺の性欲とは同時に成り立たない。何たる不幸だろう。


 救いがあるとすれば、それがまだ仮定の話ということ。そう、真実かも分からないのだ。また、仮にそうであっても、解決法がきっとあるはずだ。


 俺は自らを鼓舞し、その場を立ち去ろうとしたが、その時、足元にふと何かが落ちているのを発見した。


 見ると装飾が施された髪留めであった。きっとマニラのものだろう。彼女が向かった方角は分かるが、恐らく追うことは不可能だ。俺自身が道に迷ってしまう。


 だが、この髪留めを仲介として、ルナータと話す口実を作り出せるだろう。マニラとルナータとの関係は分からず仕舞いだが、俺もその中に関わっている可能性がある。この世界での関係性を知る為にも無駄にはなるまい。


 俺は宮殿へ戻った。実際問題、この世界にも仕事があって、俺も下級神ドルンドルンとして何かに従事しなければならない。そのことを考えると気が重いが、しかし、人間の神、という響きは相変わらず魅力的だ。


 俺はここでどうにかして生きて行こうと決心していた。


 その為にも、昨日、レヴォンに聞きそびれたが、まずは人間がどういうものかを知る必要もある。現状、俺はまだこの天界と言うべき場所しか知らず、人間や他の動物たちの姿を見てもいない。


「地上か、どんな所だろう」


 ぼちぼち地上へ降りてみなければならない。俺は新しい目的を見出した。

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