第10話 天空の階段

 門を抜けると、俺はすぐに腰を抜かしてしまった。突如、何もない虚空に飛び出してしまったのだ。足元には足場らしき感触があり、よく見ると薄黒く彩色されているのが分かるが、透明であることに変わりなく、何とも覚束おぼつかない。


 勇気を出して眼下に目をやると、階段のようなものが、緩やかな弧を描いて、遥か地上まで伸びているのが見えた。


「帰りはさすがにエレベーターが使うけどね、たまにはこうして歩きたいなって思うの」


「お、落ちそう……」


 弱気な心を寸での所で押し留めていたのだが、遂に抑えきれなくなった。何せ、手すりのようなものも見えないのだ。壁があるようにも見えない。ちょっと身を乗り出せば、たやすく落下してしまう。


「わっ!」

「あっ、あっ!」


 及び腰になっていた俺を、ルナータが軽く突き飛ばす。俺は手をばたつかせるが、敢え無くバランスを崩してしまった。


 終わった。


 そうか、結局は怒りを抑えられず、ルナータは俺を始末することにしたのだ。足が宙に浮いた瞬間、俺は死を覚悟した。


 しかし、俺の体は空中で不意に静止した。何か柔らかいものにぶつかった感覚がある。


「あはは、本当にどうしちゃったのよ」


 ルナータが破顔している。俺は思わず目をしぱしぱさせた。


「な、何するんだよ」


「ごめんごめん、そんな変なこと言いだすから、つい、ね」


 その笑顔を見て、とにかく俺は安心した。一度、死んだという観念があるからだろう。今、結果的に俺が生きているという事実よりも、ルナータが微笑んでくれていることに、それ以上の感謝が湧いて来るようだった。


 それから俺たちは連れ立って階段を下りた。俺たちを包み込む空気は柔らかく、心地よいものだった。


 大地は遥か先に落ちている。緑豊かな悠久の大地。それは、遠目に見る限り、昨日ドルンドルン邸の奥で見た別世界と、特に変わる所はないように見えた。


 俺はふと考えた。人類はどの時点から歴史を持ち、天上からでも見えるような構造物を作り上げたのだろう。もっとも、それ自体に深い興味はない。大事なのは、こうして今、俺の目に人工物らしきものが何も映っていないということだ。


 ならば、この地上の人間とは、彼らが文化を持つ以前の世界か、もしくはその特殊性から、彼らが別の空間に移動させられたものであるかも知れない。少なくとも、彼らが他の動植物とは一線を画す存在であることが予想される。


 俺たちは天空の階段を下りていく。やがて地上に近付くにつれ、その様相が明らかになって来た。


 地上は俺が見知ったものとそれほど違いはなかった。青い海、果てしなく広がる緑、そして大地。大きさの比較までは出来ないが、海と地上の比率も、地球と似通っているようだった。様々な環境があり、種々雑多な動植物がいる。


 緑と大地が半々である大陸があった。俺たちが向かうのはそこのようだ。海岸線が緩やかに広がり、大陸内部を突っ切って大河が流れている。本来、そのような環境であれば、古代だとしても少しは人間がいるはずだろう。


 俺は広く視界を見回した。だが、人間の生活の痕跡は見当たらなかった。


「ドルンドルンは変わったね」


「そうかな、どんな風に?」


「以前はどこか取っ付きにくい所があったけど、今は違う」


 俺が以前のドルンドルンではない、ということは、確証こそなくても、それなりの神々が気付いている。もっともそれは感覚的なもので、中身が別物になったと想像する者はいないだろう。


 しかし、リプリエは別だ。あれは俺の分身だとか言ったが、そのような存在である彼女は、俺の中身を一発で見抜いてしまった。


 とはいえ、ある程度はどうしようもない事だ。俺自身も、ドルンドルンの本来の性格は分からず、演じることも不可能だ。ただ、だからといって何もしない訳ではない。疑惑の矛先を少しでも逸らす為、手を打てることがあれば打つに越したことはない。


「体調は特におかしな点はないが、ド忘れしたみたいに記憶が飛んでしまうことが、たびたびあるんだ」


「あら、そうなの? ただ、私は例えそんなでも、そっちの方が良いような気がするよ」


「それは嬉しいけど……。あっ、聞きにくいんだが、ルナータは何の担当だったっけ?」


「私の担当? ほら、ちょうどあそこにいるよ」


 天空の階段を進むこと一時間あまり、俺たちはもう地上から数十メートルという所にまで下りて来ていた。階段は不思議なもので、一歩が数歩、もしくは数十歩に引き伸ばされているように、そこを歩いている間、俺たちの体は目まぐるしい速度で降下していくようだった。


 ルナータが指を差した平原の中には、猫を二回りほど大きくしたような動物がいた。毛並みが豊かで、可愛らしさはあるが、俺が見知っている猫と比べると、やや野性味が強いように感じる。


「私はあのネコたちの中の、主に中型~小型を担当している。全土に幅広く存在しているけど、数はそれほど多くない。まあ、力は大きくないかも知れないけど、管理自体は楽だ」


 俺は聞き慣れた”ネコ”という単語を聞き、いくらか気持ちを安堵させると同時に、それ以上の不安に駆られた。猫がいるというのなら、やはり人間も存在しているはずだ。それなのに一人も見当たらないのはどういうことだろう。


 俺はルナータに怪しまれない程度に、周囲を慌ただしく見渡した。牧草地帯にはシカにキツネ、ウサギやリスといった小動物の姿が見える。猫と同様に、俺の認識とさほど変わりはない姿だ。彼らは互いに警戒し合うこともなく、自然の中でのびのびと過ごしていた。


 やがて俺たちは地上に降り立った。地上でも移動方法は同様で、一歩がまるで数十歩~数百歩の如くに移動する。ルナータの話では、その速度はある程度まで自由に変更できるということだ。


「少し速めようか、今日はこの大陸の南東部でも視察しましょう」


 ルナータの言葉通り、俺たちは地を滑るような速度で進んだ。付近には深い森が広がっており、松の木が空高く伸びていた。夏の盛りといった様子で、木々の間からは太陽の光がきらきらと零れ落ちている。鳥たちのさえずりが賑やかに鳴り響き、生命の営みが至るところで感じられた。


 俺たちはやがて開けた草原に出た。草原でも見慣れた動植物が生息しており、自然のサイクルが完璧に回っている様子を窺わせる。ヘビが日向ぼっこをし、カエルは水辺で跳ねる。それぞれが自らの役割を全うするかのように、あるがままに過ごしていた。


 だが、相変わらず人間の姿は見当たらない。俺は視線を様々に向け、人間、及びその生活の痕跡を探した。しかし、人為的なものはどこにもなく、人の生命の息吹さえ聞こえない。


「あ、ドルンドルン、あなたの仕事だよ」


 お、ついに人間と対面か、と思い、俺はルナータの視線を急いで辿った。するとそこには小型の猿のようなものがいた。俺の見知っている猿と比較すると、背が低く手足がやや細長い。


 あれが人間、なのだろうか。


 ルナータの様子を見ていると、冗談を言っているようには見えない。俺はその猿らしきものを目の当たりにしながら、何の言葉を発することなく、しばらくの間、その場に立ち尽くしていた。

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