第三章 パンドラの世界

第24話 破滅の足音

「リプリエ、どうだ?」


「うん、少しくらいなら大丈夫。もっと力が残っていれば、とは思うけれども」


「現時点ではあまり回復しないというか、向上しないんだったな」


「そうね。あなたと出会った最初の日に、大きくなる為に力を使わなかったら、完全な所まで行けたかも知れないけど、嘆いても仕方ないわよね……」


 リプリエはそう言うが、俺は大いに嘆きたい。まさか、俺の些細なお願いがこのような形で報いを受けるとは思わなかった。


「……まあ、仕方ない。それではやってくれ」


 俺がリプリエに頼んでいるのは、イブの姿を、俺が知る本来の人間の姿に近づけてもらうことだ。リプリエが人間の真の姿を知らずとも、それは神々と似たような姿でもあり、人間の姿を知らない彼女には神々の姿を要望すればよい。


 リプリエが手をかざすと、虹色に近い輝きを持つ光が、イブの周囲をそっと取り巻いた。輪郭がぼやけ、体の先々から少しずつ姿を変えていく。数秒後、光が取り除かれた後に残っていたのは、俺が知る人間の姿に、やや近付いたイブの姿であった。


 それはやはり人間と呼ぶには早計だ。先ほどよりは随分と人間らしくなったとはいえ、特に女性となると、未だ骨格や毛深さ、顔の造形などが気に掛かる。


 これから、パンドラの神として、俺はそれらしい初仕事をする。大いなる覚悟が必要だったが、しかしその心構えは十分に出来ている。


「ふう。まあ、今の私の力では、こんなところかしらね」


「ああ、十分だ。ありがとう」


 短い間があった。俺は弾んだような、沈んだような複雑な色合いを秘めて、言葉を繋ぐ。


「リプリエ、俺は遠くなくパンドラを出ると思うが、その後、時間を速めて、イブの様子を見て、助けてやってくれ」


「はい。その辺りの準備は出来ているわ」


「感謝する。では、俺はイブに神の力の一端を分け与えようと思う」


「どうやって?」


「そ、それは、なかなか言葉では言えない。ただ、リプリエ、君はそれを影で見ていてもいいし、見なくてもいい。数分で終わる。……それでは、また明日にでも訪れる」


 俺はリプリエを振り返らず、イブをそっと木陰へ移した。


 そう、これが神として、俺が、この世界に風俗を生み出す為の真の第一歩となる。それを思えば、思えばこそ、意思で、確固たる想像力で、この苦難を、必ず乗り切れるはずだ。


 イブの持つ獣性と、俺の神としての力が、いい具合に混ざり合えば、それなりの人間へと生まれ変わるのではないか。それが俺の目論見であった。無論、それにはそれなりの苦痛が伴うことも理解している。


 俺はイブと交わる決意をしていた。


 しかし、何も最初から最後まで行為を行う、という訳ではない。俺は想像力をたくましく働かせ、まず、その場で自らのモノを元気付けた。緊張しかねない状況ではあるが、リプリエがどこかで見ているかも知れないと思うと、俺の期待していた通り、少しばかり興奮を上乗せすることが出来る。


 ただ、今後の為に一つの不安がある。ここ数日は性欲を抑え気味でいられたが、発射してしまうばかりに、その後しばらく、それが輪を掛けて強くなる心配があるということだ。


「ええいっ、ままよ!」


 しかしあれこれ考えていても仕方がない。俺は悩みを吹き飛ばし、半ば勢い、半ば自棄やけ気味になって、発射寸前にまで持っていくと、イブに駆け寄り、そのまま俺の分身達をイブの中に注ぎ込んだ。


「大義の為だ! 大義の為だ!」


 全てが終わった後、俺は自らを鼓舞せんと高らかな叫びを上げた。終わりだ、ここでこの記憶は終わりだ。そうして、逃げ出すようにしてパンドラの地を後にした。




― ― ―。




― ― ― ― ― ―。




― ― ― ― ― ― ― ― ―。




 朝が来た。スズメの声はしない。ドルンドルン邸はその日も静かな始まりだった。


 昨夜、神々の酒と呼ばれるネクタルを初めて飲んだ。それまで、どこか恐ろしくて飲めなかったものだ。まろやかな甘味を備えた、純度の高い酒であった。そう、俺は昨日の最後の記憶を、全てそのネクタルで上書きしたのだ。


「昨日の酒は、美味うまかった」


 俺は誰ともなく、小声で呟いた。


「初めて飲んだネクタルだ、不味まずいはずがない!」


 やや力強く、再び呟く。


 幾ばくかの虚しさを覚えたが、必要な儀式だった。今頃、パンドラでは、それなりに時間が経過していることだろう。上手くいっていれば、既にイブには子供がいるはずだ。彼らが人間として力を得るごとに、それはパンドラを満たす力となり、俺とリプリエの力となる。


「まあいい、ようやくパンドラが目覚めた、といった所か」


 俺はすぐにでもパンドラに戻りたかったが、しかしまずは宮中に向かわなければならない。神々というのは至って真面目な集団であり、特に下級神たちはそれが顕著であるように感じる。俺も下手なことで目を付けられる訳にはいかない。


「ようドルンドルン、最近、何か忙しそうだな」


「あ、ああ、まあな」


 面倒な朝礼を終えたあと、レヴォンが背後からそっと俺に声を掛けて来た。俺は力なく振り返る。すると。


「うわっ、大丈夫か、生気を吸われたような顔をしているじゃないか」


「大事なものを失ったんだよ……。すまない、ちょっと一人になりたいんだ」


 思えば、俺は別にレヴォンが嫌いな訳ではないが、何かと理由を付けて彼の前から姿を消しているような気がする。俺ははっと思い直し、レヴォンと共に中庭に行こうかとも思ったが、どんなにつくろっても、昨夜の記憶が生々しく残っている。やはり、今すぐに誰かと話す気にはなれない。


「自然はいいなあ」


 俺は懲りもせず中庭を訪れ、小さく呟いた。精神が未だに不安定な為か、思ったことが口から出てしまう。


 しかし中庭が、よどんだ俺の心を癒すのは事実であった。地上の緑深い場所でもいいのだが、実を言うと、人間の神、かつ下級神ということで、行動に際し若干の気後れが生じているのも事実だ。あまり目的も無く地上を徘徊する気分にはなれなかった。


 光溢れる静かな道を歩く。頭上を木々の枝葉が覆い、一際ひときわ空気が澄んでいるようだった。初めてここに来たのは、そう、マニラ姉さんに連れて来られた時だ。彼女のことを思うと、俺は俄かに興奮してしまった。


 思った通りだ。これまで、風俗での快楽効果を高めようと、禁欲生活をしたことはある。三日か四日目あたりまでは苦しいが、それを乗り越えると、その後は不思議と楽になる。俺はちょうど、昨日まではその状態だったのだが、遂にそれを破ってしまった。


「俺は今、獣だ。特に、今は……」


 この復活した欲求不満は、簡単なものでは収まらない。もしここに今、懇意な女性が現れたとしたら、俺は自分が自分でいられるかは分からない。


 と、そこへまさか、背後から俺を呼ぶ声がする。


「ドルンドルン、ここにいましたか」

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