パンドラの記憶【深海の羽衣とコーヒー】②


 自宅に戻ると、居間の床にぺたりと座った。


「読んだのよ。わたしとまったく同じ人生を歩んだ、前向きな女性の物語を、たしかに読んだのよ。」


 記憶違いでも幻でもないはず。わたしは、カバンから白い手帳を取り出すと昨日の日付を探した。


「あった。間違いないわ。わたしは、『深海の羽衣』を読んだのよ。」


 物語を読んだという事実は、わたしだけが知っている。真実なのに、なんと不安なことだろうか。


「お母さん、できたよ!」


 顔を上げると、娘が飛び切りの笑顔で居間に飛び込んできた。大事そうに抱えている原稿用紙は、完成した物語だろう。


「誰よりも、お母さんに読んで欲しくて。」


 娘は、照れくさそうに後ろ頭をポリポリかきながら、わたしに原稿用紙を差し出した。

 ありがとう、と、娘に言いながら物語を受け取った。気持ちは嬉しいけれど、徹夜で読書をしたあげく、本当に読んだのかどうかも定かでなくなってしまった、まさにこのタイミングで読書をするのは、体力的にも精神的にもかなり苦しいけれど、娘の気持ちを無駄にしたくなかった。わたしは深呼吸をした。


 娘はいつも、タイトルを書きこんだ原稿用紙の上に、まっさらな原稿用紙を乗せる。わたしは、何も書かれていない一枚目の原稿用紙をめくった。そして、息をのんだ。



 ✿。.゚ :✿。.゚ :✿。.゚ :✿。.゚ :✿。.゚ :✿。.゚ :✿


 『深海の羽衣』    玄井緇子くろいくろこ 

   

  澄める月 羽衣まとふ天の巫女


     傷を癒すは 過ぎ去りし日々


 ✿。.゚ :✿。.゚ :✿。.゚ :✿。.゚ :✿。.゚ :✿。.゚ :✿



 そんな、まさか──、


 わたしは、次々ページをめくった。そこには、わたしが徹夜で読みふけった物語と、寸分違わぬ物語が書かれてある。


 娘は、ソファにゆったりと身を沈め、深い眠りに落ちている。娘にタオルケットをかけると、居間のカーテンを閉め、部屋を暗くした。そして娘の書斎から電気スタンドを借りてくると、娘の眠りの邪魔にならないように明かりをつけた。


「読書のお供は、コーヒーよね。」


 わたしは、コーヒーをいれて、最後の物語を読み始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る