深海の羽衣〖玖ノ箱〗②


 そのときだった。私の横を祖母がするりとすり抜け、部屋の真ん中の二人に、ブリキのバケツ一杯の水を思いきりかけた。


「何するのさ!」


 かみつきそうな顔で、母が祖母を見る。祖母は、真冬の水より冷たいまなざしで、二人を交互に見た。


「少しは目が覚めたかい。いい大人が泥酔してケンカして、恥ずかしくないのかい。」


 祖母は、今度は義父を見た。


「あんたも、こんな酔っ払いにいちいち反応するんじゃないよ。あんたがこの子のことを大事にしてくれているのは、よく分かってる。それなら、こんな馬鹿なことはしないことだね。」


 申し訳なさそうな目で私を見る義父に言葉をかけようと顔を上げると、視界が母の姿を捉えた。その姿に違和感を覚え、私は、反射的に母を見た。


「気がついたかい。」


 祖母が、私を見てほほ笑んでいる。私は、何も言わずにうなずいた。


「そう。血なんて、流してなかったのさ。」


 よく見ると、母の近くにインスタントコーヒーの空きビンが転がっている。母は、インスタントコーヒーの粉を頭からかぶったのだろう。その粉が溶けて、血液のように見えただけだった。


 衝撃的すぎる場面を目撃した私は、母が死んでしまうのではないかとパニックを起こし、しばらくの間、ノイローゼになった。あのときの光景は、コーヒーが見せた幻影だったというわけだ。


 腹の底から怒りが沸き上がる。私は、自分の胸の前で右手を強く握った。


 目の前にいるのは、間違いなく私の両親だ。だから、こんな感情を持つのは間違っているのかもしれないけれど、これまでの人生を思い返すと思い切りぶん殴ってやりたくなる。


 右手が震えた。


「大丈夫。ばあちゃんがついてるよ。お前の思う通りに、行動なさい。」


 祖母が、私の背中をゆっくり撫でた。私は、その大きな手を背中いっぱいに感じた。


 義父は、今にも泣き出しそうな顔で私を見ている。祖母の言う通り、義父は私を大切にしてくれた。妹が生まれてからも分け隔てなく接してくれた。酔うと暴力をふるう人だとレッテルを貼られたけれど、私には一度たりとも手を上げなかった。母が義父の逆鱗にふれていただけで、そもそも暴力的な人ではなかったのだろう。

 あの頃も、義父のことを正しく理解してくれる人がいたら、いいえ、私自身が義父のことを、ちゃんと、見ることができていたら、私は、この人の元からお嫁に行ったのかもしれない。

 そう思うと、怒りは自然と収まっていった。


「あんたたちまで、そいつの味方をするのかい!」


 母の怒鳴り声が聞こえ、私たち三人は同時に母を見た。プライドを傷つけられた母は怒りに震えている。


「敵、味方で家族を判断するのかい。それなら、ここにいる全員が、あんたの味方だよ。」


 母にそう言うと、祖母は私を連れて部屋を出た。



「今は、何個目の箱にいるんだい。」


 歩きながら、祖母が私に尋ねた。私は立ち止まって祖母を見た。


「ばあちゃん、やっぱり、私の記憶のばあちゃんじゃないのね。」


「ああ、そうだよ。だけどね、今はその話をしている余裕がないんだ。そろそろ次の場面に移るだろうからね。」


 その言葉の直後、世界がゆがみ始めた。


「いいかい、諦めるんじゃないよ。」


 その後に続いた言葉を置き去りにして、記憶は、次の場面に移った。

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