深海の羽衣〖玖ノ箱〗③
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目を開けると、五十代の私が娘と暮らしている現在の家の居間にいた。目の前の座卓には、古ぼけた濃い藍色の本がある。読書の最中だったようだ。傍らには、オレンジと白の、二冊の手帳がある。私は、オレンジの手帳を手に取って開いた。
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海猫の鳴ぎ声
遠ぐの空で母っちゃ母っちゃど
(海猫の鳴き声が、幼い子どもの声に似ている。
遠くの空で、母ちゃん、母ちゃん、と……)
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思った通り、短歌があった。そしてこれは、あのとき別れ際に祖母が詠んだものだ。その隣には、別の短歌が浮かび上がっている。
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母の愛 知らぬ我が胸 涙ぐむ
心に誓う 我が子への愛
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首をかしげた。私の心を詠んだもののようだが、手帳に書いた覚えも、思い当たることもない。もしかしたら、これから起こることに関係しているのかもしれない。それを思った瞬間に、心に重いものがのしかかるのを感じた。そして、けたたましくインターホンが鳴った。
玄関の鍵を開けると、母が戸を開け、押し入った。そして、例のごとく怒涛のように自分の事情をまくしたてた。話があちこちに飛んで分かりにくいが、要約すれば、週末に趣味のカラオケの発表会があるから、その日、私に着付けを頼みたい、といったことのようだった。
着付けは、私の特技だ。動きやすいだけでなく長時間着ていても崩れないというので、発表会のときには私に着付けを依頼する。しかし、このときは引き受けることができなかった。だから――、
「お母ちゃん、ごめんね。その日は、仕事が入っていて休めないの。」
私は、母にそう伝えた。すると、驚いたことに母は、
「仕事くらい休みなさいよ。子どもは、親を喜ばせるためにあるんだから。」
と、言い切った。
改めて聞いても、驚きしかないわね。ここまでくると、ある意味で尊敬の念すら感じるわ。
私は、腰に手を当て、母を正面から見据えた。
「自分の身を削って、ばあちゃんを喜ばせたことが一度でもあったのかしら。悪いけど、お母ちゃんの趣味に生活を犠牲にするつもりはないわ。」
そう、きっぱり言い、母を追い返した。
そして、世界がゆがんだ。
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