深海の羽衣〖玖ノ箱〗①


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 光が消えると、解きかけの国語のドリルが私の目に飛び込んできた。どうやら、居間で宿題をやっていたようだ。五年生のまとめ、という文字が見える。


 ダルマストーブの小窓からオレンジ色の火が見える。木がはじける音とヤカンから勢いよく吹き出す蒸気の音だけが部屋中に響く。季節は冬なのだろう。


 外の空気が吸いたくなった。少しだるさのある体に冷たい海風を当てれば、すっきりするような気がした。


「ばあちゃん、ちょっと、外の風を浴びてくるね。気分転換がしたいの。」


 台所で洗い物をしていた祖母は、私を見ると真剣な顔で言った。


「何かあったら、すぐにばあちゃんを呼ぶんだよ。」


 私は、分かった、と答えて玄関の戸を開けた。



 細長く続く土間は、外でも内でもない不思議な空間だ。渡り廊下のようでもあり、風除室のようでもある。

 祖母の言葉から、これから何が起こるのか、だいたいの想像がついた。


 分かっていることとはいえ、やっぱり億劫おっくうだわ……。


 ついたため息は、小さな雲を作ると、ふわりと闇の空にのぼって消えた。


 曾祖母そうそぼが暮らしていた離れに目をやると、ぼんやりと灯りがついている。今の私は小学五年生だから、曾祖母はすでに亡くなっていて、本来なら誰もいないはずだ。ということは、あの離れには義父ちちと母がいるのだろう。


 キンと冷えた空気が、両親が怒鳴り合う声を運んできた。間違いない、喧嘩けんかをしている。私は、回れ右をして戸を開け、祖母に近づいた。


「ばあちゃん、あの二人、ケンカしてるわ。」


 祖母は、冷めた顔の私を見て、ほんの少し苦笑いをした。そして、濡れた手を拭くと、一緒に離れに向かった。


 二人が結婚したのは、妹が生まれた、あのときが初めてではなかった。一度結婚し、離婚して、再び結婚したときに妹が生まれたのだ。

 二人は、事あるごとに喧嘩をした。その原因はいつも取るに足らない些細なことだった。何気ない母の言葉が、いつも義父の心を逆なでしたのだ。


 離れの部屋のふすまを力いっぱい開けた。部屋の真ん中で義父が仁王立ちしている。そのかたわらには、頭からどす黒い血を流す母がうずくまるように座っていた。


 私は顔をしかめた。部屋にはビールや酒のビンがゴロゴロ転がっている。二人とも、あきらかに泥酔しているのだ。

 はあっ、と、いらだちのため息を短くつくと、靴を脱ぎ、離れに上がろうと足をかけた。

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