パンドラの記憶【冷めた珈琲】①


 口に運んだコーヒーカップが前歯にぶつかり、カチカチと音を立てた。わたしは、コーヒーカップをテーブルにもどし、深呼吸をした。


 オリーブの首飾りの古いオルゴールが玄関先に置かれていたのは、数か月前のことだ。物語ではコースターと書かれていた謎のタイルが入っていたことも、娘がオルゴールを欲しがったことも、物語と同じだ。


 ごくりと唾を飲み込んで、娘の書斎があるあたりの天井を震える目で見上げた。そして、本棚にあるはずのオルゴールを思い浮かべた。


 あの中には、あのときのタイル……、いや、コースターが入っているのだろうか。物語では、今まで見つけた全部のコースターを入れると言っていた。それらも、入っているのだろうか……。


「あれ? お母さん、まだ起きてるの?」


 口から心臓が飛び出しそうなほどに驚いた。娘が居間に降りてきたのだ。いつもなら階段を下りる足音で気がつくのに、まったく気づかなかった。


「え、ええ。本が面白くってやめられないの。読み終えるころには、きっと朝ね。」


 あわててそう言って、深海の羽衣の表紙を娘に見せた。娘は、そうなの? と首をかしげると、トイレに入った。まもなく、トイレから寝息が聞こえてきた。執筆で寝不足が続いていた娘は、睡魔に勝てなかったのだろう。


 ……今しかないわ。


 わたしは、そっと立ち上がった。そして、そっと階段を上がると、書斎のドアを開け、するりと中に入った。


「オルゴール……、オルゴール……、あ、あった。」


 本棚の一番上で、その時を待っているのか、息をひそめて座っている。


「わたし、どうしちゃったのかしら……。こんな、空き巣みたいなことをするなんて……。」


 考えてみれば、ここにギリシャ神話を借りに来たときも、堂々と借りずに味噌おにぎりをだしにした。


 なんだか、わたしの中に『もう一人のわたし』がいて、今読んでいる物語の存在を誰にも知られないようにしているみたいね……。


 自分らしからぬ空き巣のような行動をとっているのも、『もう一人のわたし』の影響なのかもしれない。それならばこの部屋に来なければいいのだけれど、どうしても確認したい衝動も抑えられない。

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