深海の羽衣〖玖ノ箱〗⑤


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 私は、病室の前に立っていた。間違いなく、祖母が入院していた病室のドアだ。ノドから心臓が飛び出そうなほどに、激しく脈打っている。


 震える手でドアノブを握って、力いっぱいドアを開けると、酸素マスクをつけた祖母がベッドに横たわっているのが見えた。


「おお……、よく来たね。」


「遅くなってごめんね。」


「いいんだよ。さ、こっちにおいで。」


 祖母の呼吸は荒い。その時が近づいている証だ。私は、速足で祖母に近づくと、祖母の手を握った。


「羽衣はね、空を飛ぶための道具じゃあ、ないんだよ。ばあちゃんは、途中で闇の箱を使ってしまった。」


 祖母は、そこまで言うと目を閉じた。そして、深く、深く、震える呼吸をして目を開けた。話さなくていいのにと思ったけれど、その瞳の燃えるような力強さに、言葉を飲み込んだ。


「……一度でも記憶の箱に入った者は、同じように、記憶の箱に入った、誰かの記憶の再現に参加するんだよ。ばあちゃんのときは、ばあちゃんの母ちゃん……、つまり、お前のひいばあちゃんが、いたんだ。でもね、ばあちゃんは、そのことに気付かないまま、あの箱を使っちまったんだ……。」


 祖母は、再び、深く呼吸をした。そして、手にギュッと力を込めて、わたしの手を握り返した。


「お前の羽衣を……、お前だけの羽衣を見つけなさい。大丈夫。お前なら、必ず、見つけられるから……。」


 私を見つめる祖母は、穏やかな笑みをたたえて、ゆっくりとうなずいた。そして、しぼるように息をして、そっと目を閉じた。祖母の手の力はみるみる失われてゆき、やがて、重力に逆らうことなく、私の手からするりと落ちた。


「ばあちゃん……!」


 私は、バッグからハンカチを取り出して口にくわえると、ギリギリと噛んだ。今、泣き叫ぶわけにいかない。じきに叔父がやってくる。私を見た叔父が、どうしてここにいるのかと尋ねるだろう。それに対する言い訳を考えられるほど、今の私には余裕がない。

 私は急いで立ち上がると、誰にも見られないように気をつけながら、病院の外に出た。そして、車に乗り込むと思い切り泣いた。



 今日、九月十日、母のように慕っていた祖母が、永遠の眠りについた──。



 祖母を看取っても、場面は変わらなかった。ここで、まだやることがあるのだろう。


 頃合いを見計らって病室に戻ると、すっかり冷たくなった祖母がベッドに横たわっていた。その寝顔は、春の空のように安らかで暖かく、本物の天女のようだった。

 ふと、オレンジの手帳が気になった。バッグから取り出して開いてみると、やはり、短歌が現れていた。



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 苦しいへずねえなあ…… 蚊の鳴く声で言う祖母を

            ただ見守るだけの力なき我



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 短歌を読み終えると、私は左手で手帳を抱きしめ、右手で祖母の頬にそっと触れた。


「そうね……、私、ばあちゃんに何もしてあげられなかった……。」


 そうつぶやいた瞬間、透き通るような光が現れ、祖母を包んだ。すると今度は、その光が祖母の枕元に集まり、白く輝く小さな箱へと姿を変えた。


 間違いない、かがやく密箱だ!


「かがやく密箱……! やっと見つけた。」


 私は、ポケットから白い鍵を取り出すと、最後の箱の鍵穴にそっと差しこんだ。

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