深海の羽衣〖玖ノ箱〗⑤
✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼
私は、病室の前に立っていた。間違いなく、祖母が入院していた病室のドアだ。ノドから心臓が飛び出そうなほどに、激しく脈打っている。
震える手でドアノブを握って、力いっぱいドアを開けると、酸素マスクをつけた祖母がベッドに横たわっているのが見えた。
「おお……、よく来たね。」
「遅くなってごめんね。」
「いいんだよ。さ、こっちにおいで。」
祖母の呼吸は荒い。その時が近づいている証だ。私は、速足で祖母に近づくと、祖母の手を握った。
「羽衣はね、空を飛ぶための道具じゃあ、ないんだよ。ばあちゃんは、途中で闇の箱を使ってしまった。」
祖母は、そこまで言うと目を閉じた。そして、深く、深く、震える呼吸をして目を開けた。話さなくていいのにと思ったけれど、その瞳の燃えるような力強さに、言葉を飲み込んだ。
「……一度でも記憶の箱に入った者は、同じように、記憶の箱に入った、誰かの記憶の再現に参加するんだよ。ばあちゃんのときは、ばあちゃんの母ちゃん……、つまり、お前のひいばあちゃんが、いたんだ。でもね、ばあちゃんは、そのことに気付かないまま、あの箱を使っちまったんだ……。」
祖母は、再び、深く呼吸をした。そして、手にギュッと力を込めて、わたしの手を握り返した。
「お前の羽衣を……、お前だけの羽衣を見つけなさい。大丈夫。お前なら、必ず、見つけられるから……。」
私を見つめる祖母は、穏やかな笑みをたたえて、ゆっくりとうなずいた。そして、しぼるように息をして、そっと目を閉じた。祖母の手の力はみるみる失われてゆき、やがて、重力に逆らうことなく、私の手からするりと落ちた。
「ばあちゃん……!」
私は、バッグからハンカチを取り出して口にくわえると、ギリギリと噛んだ。今、泣き叫ぶわけにいかない。じきに叔父がやってくる。私を見た叔父が、どうしてここにいるのかと尋ねるだろう。それに対する言い訳を考えられるほど、今の私には余裕がない。
私は急いで立ち上がると、誰にも見られないように気をつけながら、病院の外に出た。そして、車に乗り込むと思い切り泣いた。
今日、九月十日、母のように慕っていた祖母が、永遠の眠りについた──。
祖母を看取っても、場面は変わらなかった。ここで、まだやることがあるのだろう。
頃合いを見計らって病室に戻ると、すっかり冷たくなった祖母がベッドに横たわっていた。その寝顔は、春の空のように安らかで暖かく、本物の天女のようだった。
ふと、オレンジの手帳が気になった。バッグから取り出して開いてみると、やはり、短歌が現れていた。
✿。.゚ :✿。.゚ :✿。.゚ :✿。.゚ :✿。.゚ :✿。.゚ :✿。.゚ :✿。.゚ :✿
ただ見守るだけの力なき我
✿。.゚ :✿。.゚ :✿。.゚ :✿。.゚ :✿。.゚ :✿。.゚ :✿。.゚ :✿。.゚ :✿
短歌を読み終えると、私は左手で手帳を抱きしめ、右手で祖母の頬にそっと触れた。
「そうね……、私、ばあちゃんに何もしてあげられなかった……。」
そうつぶやいた瞬間、透き通るような光が現れ、祖母を包んだ。すると今度は、その光が祖母の枕元に集まり、白く輝く小さな箱へと姿を変えた。
間違いない、かがやく密箱だ!
「かがやく密箱……! やっと見つけた。」
私は、ポケットから白い鍵を取り出すと、最後の箱の鍵穴にそっと差しこんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます