深海の羽衣〖壱ノ箱〗②


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 突然、自分以外のすべてが、ぐにゃりとゆがんだ。激しい目眩のような景色の変化で、激しい吐き気に襲われて目をつむった。

 しばらくして吐き気が治まり、そっと目を開けた。


「ここは……。」


 私が座っていたのは、祖父のあぐらではなく、座布団だった。目の前には仏壇があり、二枚の小さな写真が並んで立てられている。二枚ともよく知っている写真だ。向かって右側が父とともに海で亡くなった伯父、そして左側が父だ。


「おや、今日はずいぶん早いねえ。」


 振り向くと、仏壇にお供えするご飯とお水を持った祖母が立っていた。


 お寺で修業をしたことがあるほど、祖母は信仰心のあつい人だった。祖母が話してくれた仏様の教えは難しかったけれど、言葉の端々にあらわれる命を重んじる優しさに、幼いころの私は強くひきつけられた。


 そんな祖母だから、一日二回のおつとめは、欠かしたことがなかった。私はいつも祖母のあとをついて歩き、家族の誰も拝まなかった仏様に、祖母と二人で手を合わせていたものだった。


 今はちょうど、朝のおつとめの時間なのだろう。ぼんやりと自分を見つめる私が心配になったのか、祖母は私に、何かあったのかと尋ねた。


「ううん、なんでもないの。さっき目が覚めたばかりで、まだちょっと眠いだけ。」


 私は、つとめて子どもらしい笑顔をつくった。

 祖母は首をかしげながらも、おつとめの準備を進めていく。私は邪魔にならないように気をつけながら、仏壇に飾られている父の写真を眺めた。


 お父さんという存在については、大人になった今でもよく解らないままだ。辞書に書かれている父親という単語の意味ではなく、感情や感覚をともなった、お父さんという存在は、じかに触れあった者でなければ分からないだろう。だから、当時の私にとって『オトウサン』は、じいちゃんより若い男の人、くらいの認識でしかなかった。


「さあ、おつとめを始めようねえ。」


 祖母の声で我に返った私は、明るくうなずいた。

 おつとめが終わると、祖母は私の頭をなでた。そして、何かを待っているように見えた。おそらく、この記憶に関する、私の言葉か行動を待っているのだろう。私は大急ぎで自分の記憶をたどった。そして、仏壇に飾られた二枚の写真を指差した。


「ねえ、ばあちゃん。この人たち、だれ?」


「こっちが、お前の伯父さんで、こっちが……、お前の、お父さんだよ。」


「ふうん、『オトウサン』。」


 実感のともなわない私の言葉を聞いて、祖母は私を、かわいそうに思ったのだろう。私をそっと抱き寄せると、背中をそっとなでた。



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 ああ哀し

  父親知らぬ幼子にババの温もり

              お前ば守る


(ああ、哀しいことだ

 父親を知らない幼い孫に、せめてばあちゃんの温もりを……

 なんとしてでも、お前を守ると誓うよ)


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 私の耳に届いたのは、つたない言葉だけれど、想いのこもった短歌だった。

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