深海の羽衣〖壱ノ箱〗③
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再び、世界がゆがんだ。私は、さっきと同じように目をつむって、吐き気が治まるのをじっと待った。
しばらくすると、子どもたちの話し声とチャイムの音が聞こえ、私は目を開けた。今度の記憶は、小学校の教室でのできごとのようだ。状況を確認しようとあたりを見渡すと、思い思いに着飾った女の人たちが、教室の後ろに何人も立っていた。どうやら参観日のようだ。母もいるのだろうかと思って見ていると、すみません、と、頭を下げながら女性たちの間を縫って歩く、一人の男性が目に入った。
「あの人、あの子の『オトウサン』なんだって。」
同級生の話し声が聞こえて、ようやくこのときのことを思い出した。そうだ。このとき、これまで自分の中で意味をなさなかった『オトウサン』という記号から、血の通った『お父さん』に変わったんだ。どうして自分にはお父さんがいないのだろうと、強く意識したできごとだった。
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再び、世界がゆがんだ。三度目ともなると、吐き気もそれほどではなくなった。それでも、乗り物酔いのような気持ち悪さがあったので、目を閉じてやり過ごし、目を開けた。
場面は教室から自宅の居間に移っていた。戸棚のガラスに目をやると、小学校四、五年生の私が立っている。そして目の前には、大声で叫んでいる母がいた。
そういえば、一度だけ、母と
記憶を再現しなければならない。とりあえず喧嘩をするために、母にあれこれ言い返しながら、この後の自分の行動を思い出した。
──そうだ。家を飛び出したんだわ。
私は、当時と同じように家を飛び出すと、消波ブロックの上に座って海を眺めた。海とともに育ったせいか、海を眺めているとほっとする。この地に住んでいたころは、何かあるたびにここに来ては海を眺めたものだった。
荒々しくブロックにぶつかる波に心を預け、何も考えず、心を空っぽにする。
「……このまま、この海をまっすぐ入っていったら、お父ちゃんに会えるのかなあ。」
悲しみと寂しさに満たされた状態で海を見ているうちに、仏壇に飾られた遺影の父を、この広い海に重ねてしまったのだろう。記号の『オトウサン』ではなくなったあの参観日から、私は、会ったことのない父を求めるようになっていたのだろう。今となっては、どれもこれも、海の泡のようにはかない推測だ。
それでも、思う。
もし父が生きていたら、私の人生はもう少し違ったものになっていたのだろうか……、と。
コトンと音がして足元を見ると、朱色の箱がブロックの上にあった。間違いない。記憶の箱だ! 私は迷うことなく鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。
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