深海の羽衣〖参ノ箱〗①


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 記憶の箱に鍵を差し込むのは、これで三回目。正直なところ、うんざりだ。


 それでも、なんとなくではあるけれど、分かったことがある。

 ひとつは、蓋を開けてから次に蓋を開けるまでの間に、エピソードがいくつか再現されるということ。もうひとつは、再現されるエピソードには共通点があるということだ。


 一回目は、おそらく、父親に関した記憶だろう。

 二回目は、コンプレックスだろうか。


 もしそうだとすると、今回はいったい、どんな記憶の再現なのだろう。

 私は、ため息をつきながら箱の蓋を開けた。


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 私は、自宅の居間で母と向かい合って座っていた。算数の教科書とドリル、筆記用具が入った手作りの手提げ袋が、座卓の上に投げ出されている。


 なるほど、あのときの記憶か。


 虚弱体質だったこともあって学校も休みがちだった私は、友だちがかなり少なかった。友だち同士で遊びに行く同級生を見ては、うらやましく思っていたものだ。

 友だちが欲しいなら自分から声をかけるべきではないのかと思うのだけれど、同い年の子たちと話した経験があまりなかった当時の私は、恥ずかしい話だが、彼らとどのように話せばいいのか分からなかったのだ。そんなある日、私は、同級生から勉強会に誘われた。

 おそらく今は、母に勉強会参加の許可を求めている場面だ。


「それで?」


 目の前にいる母は、腕を組み、ふんぞり返るように背筋を伸ばし、私を見下ろしている。母お得意の高圧的な態度。そして、威圧的なひと言。


 これまでと同じく、このあと何が起こるのか分かっているのだけれど、しかたなく記憶を再現した。


「お友だちのお家で、一緒にお勉強しようって誘われているの。」


 しまった。あのときは、こんなにぶっきらぼうな話しかたじゃなく、もっとおびえていたはずだわ。気付かれるかしら……。

 何か言われたら、言い返さなきゃ。


 母が大きく息を吸っているのが見え、私は奥歯を噛みしめて身構えた。しかし母は――、


「行く必要なんてあるの? 勉強は一人でやるものでしょ。今すぐ断りなさい。」


 そう言い放って、居間を出ていった。


 私は、のっそりと動いて立ち上がり、黒電話の前にぺたんと座った。そして、受話器に伸ばした自分の手をぼんやりと見た。今は、どうやら小学四年生らしい。幼いぽってりとした手ではなく、やわらかな少女の手をしている。


 母の言葉や態度はいつも、お前には反論の権利などないと言わんばかりのものだった。当時の私は、いや、大人になってからでも、母の言葉はいつも絶対で疑ったことなどなかった。


 でも考えてみれば、小学校も高学年になっているのだ。家族に頼まれた用事も買い物も、一人でできる年頃だ。しかも、行くのは同じ町の住人。知らない人の家でもないのに、許可を求める必要性なんてあったのだろうか。ましてや断ることを強要されるなんて、理論的という言葉から最もかけ離れた行動だ。


「一番の勉強法はね、誰かに教えることなんだよ。」


 いつか娘がそう言っていた。それなら、友だちと一緒に勉強することは、そんなに悪いことじゃないじゃないか。

 私は、受話器を持ちあげダイヤルを回し、友だちに電話をかけた。そして、手作りの手提げ袋をひっつかみ、全力で家を飛び出した。その瞬間、世界がゆがんだ。

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