深海の羽衣〖伍ノ箱〗④


 あのときは、救ってあげることができなかった。血が飛び散り、恐怖と激痛で泣き叫ぶ、無力で小さな命が消えていくのを、何もできずに見ているだけだった。

 所詮、記憶の箱が見せる幻だ。過去を変えられるわけじゃない。それでも、あの悪夢を繰り返さずに済んだだけで、私自身の心が、ほんの少し、救われた。


「なあ、これ、おめえのか? 橋で拾ったんだ。」


 私のすぐ後ろを追ってきた男の子が、何か固い物で私の肩をつついた。振り向いて見ると、記憶の箱だった。


「ええ、そうよ。ありがとう。」


 にっこり笑って受け取ると、男の子は、目をそらして顔を真っ赤にした。そして、


「……今日のおめえ、かっこよかったぞ。」


 と、聞こえるか聞こえないかの小声でつぶやいた。私は、聞こえないふりをして立ち上がった。


「私、もう行かなくっちゃ。」


 ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼


 子どもたちに別れを告げたあと、海に向かって歩きながら、これまでを思い返した。


 たしかに、記憶の箱の鍵を開けるたびに、次から次へと、嫌な記憶が襲いかかってくる。それが、何かに似ている気がしてならないのだ。


 いつものテトラポットまでやってくると、腰を下ろし、海を眺めながら考えを巡らせた。


「ああ、そうか。パンドラの箱だ。」


 羽衣探しを始める少し前、娘からギリシャ神話に登場する『パンドラの箱』という物語を聞いた。

 好奇心旺盛なパンドラが、決して開けてはいけないと言われていた入れ物の蓋を開けてしまい、中に入っていたあらゆる厄災が、次々に飛び出してしまう話だ。


 実は箱ではなく壺だったといわれる、パンドラが持っていた入れ物からあらゆる厄災が飛び出す様子が、なんだか記憶の箱に似ているのだ。


「そういえば、パンドラがあわてて蓋を閉めたとき、希望だけが底に残っていたんじゃなかったかしら。もしかしたら、記憶の箱の最後にあるのって……。」


 首を横に振った。この目で確かめるまで、分からないことだ。記憶の蓋を開けて次へ進もうと、ポケットから鍵を取り出すと、一緒に手帳が落ちた。



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 赤げ血っこ流して苦しむ魚っこ

      おらの血っこどなんも変わらね

(赤い血を流して苦しむ魚 私の体に流れる血とおんなじなのね)


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 拾おうと手をのばしたとき、目に入ってきたのは、墨で書かれた短歌だった。


 ずっとポケットの中にあったのに、誰が書きこめるというのだろうかと、手帳を拾いながら思ったけれど、これも、この目で確かめるまで分からないことだと、それ以上、考えるのをやめた。


 今後も、きっと、短歌が浮かび上がるのだろう。

 そして、きっと、羽衣へと通じているのだろう。


 よし、と、気合を入れて、記憶の箱に鍵を差しこんだ。

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