深海の羽衣〖天女〗②


 それは、私が幼いころに祖母が話してくれた寝物語だった。私は今でも、この物語をはっきりと覚えている。しかし今、祖母があえてこの話をしているということは、きっと、何か意味があるのだろう。

 私は、幼いころに聞いたときとは違う思いで、祖母の物語に耳を傾けた。


「ある日、いつものように海辺を歩いていた天女は、若い漁師と出会い、恋に落ちました。しかし、その漁師には親が決めた許嫁いいなずけがいて、一週間後には、結婚式をあげることになっていました。それだけじゃありません。天界の住人である天女が、人間の世界の男性と結ばれることは、天の掟に背くことでした。ところが愛し合っていた二人は、ある夜、駆け落ちしたのです。漁師の両親は大慌て。いなくなった息子を必死で探しましたが、海辺に置かれた草履ぞうりが見つかっただけでした。天界は、掟を破った天女を許しませんでした。天女は、霊力と永遠の命を奪われ、空を舞うための羽衣は、海の底に沈められてしまいました。二人は幸せに暮らしましたが、天女はやがて年老い、永遠の眠りにつきました。」


 祖母は、私に、巾着袋を手渡した。


「羽衣を失った天女はね、『ばあちゃん』の『ばあちゃん』なんだよ。」


 私の故郷は漁師町だ。そこに伝わる、ただの御伽噺おとぎばなしなのだと思っていた。それがまさか、祖母の祖母、つまり高祖母こうそぼのことだったとは思いもしなかった。


「この中には、羽衣が入れられている箱の鍵が入っているの。おまえに、その封印を解いて欲しいんだ。」


 言い終わると、祖母はベッドに深く身を預けた。


「ああ……、苦しいねえ。これが、死の苦しみなんだろうねえ……。」


 祖母は、しぼるように息をして、そっと目を閉じた。


 ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼


 病室で巾着袋を受け取ってから一か月。何度も考えたけれど、祖母の話は夢物語のようで、受け入れることはできないままでいる。どうしようかと悩んだまま、この日を迎えてしまった。


「何とか、間に合いますように……。」


 病院の駐車場に車を停め、祖母の病室へと急ぐ。階段を上がると、叔父が、祖母の病室の前で力なくうなだれていた。私は、看護師がせわしなく出入りする病室を見た。看護師たちが手際よく処置している。



「……やっと、楽になれたんだね。」


 看護師が去った病室に入ると、酸素マスクのない、安らかな祖母の寝顔がそこにあった。

 私は、いったい何を悩んでいたのだろう。

 自分の心に素直になれば、答えはたった一つしかないはずなのに。

 私は、穏やかに眠る祖母の頬にそっと触れた。


「羽衣を探すよ。ばあちゃん、待っててね。」


 祖母に決意と別れを告げ、病院を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る