第10話やるべきことはドスケベを知ること

「おお、凄い――。これはなんというか……うん、なんていうんだろうな……凄く凄い……」

「なっ、何を感心してんの!? 早く取ってったら!!」

「いやはや、これはこれは……ゴメン榛原さん、もう少し見物してていい?」

「本当に何を言い出すの界人君! ……いやあああああ!! 脚が水着の間に入ってきた! ――ちょ、界人君ったら! 何をガッツリ見物してんのよ! 早く取ってったら、このドスケベ!!」

「どっ、ドスケベ!? おお、おお……! これがスケベっていう感覚なんだね!!」




 界人は思わず顔を輝かせた。




「なんか他の男子が榛原さんの写真が載ってる雑誌を見ながらスケベだスケベだって言ってたけど――うん、これがスケベってことなのか! 榛原さんはスケベだ!! 榛原さんはドスケベだな!!」

「何をこの瞬間に新しい感情に目覚めてんの!? それに私がドスケベって何よ!? ドスケベは界人君でしょ!! このドドスケベ! 変態ッ!!」

「そうかぁ、これがスケベっていう感覚かぁ。――よし、もう十分感動したな。取るぞ、榛原さん!!」

「早く取れって言ってんでしょこのドスケベ男!!」




 半泣きで怒鳴ってきた榛原アリスの剣幕に、界人はタコの頭を掴むや、一息に力を込めた。


 途端に、ブツブツブツブツ……と吸盤がひとつひとつ肌から剥がれてゆく感覚がして――タコが完全に引き剥がされた。




「ギャ――!」




 途端に、榛原アリスが短く悲鳴を上げた。そのまま委細構わずタコを岸まで連行し、地面に叩きつけた。ビタン! とばかりに陸へぶち上げられたタコの眉間めがけて――界人はアンカーの先を振り下ろした。


 タコは眉間が急所――過去、祖父に教えられたその言葉は正しかったらしく、ビクン! とタコが痙攣し――ゆっくりと大人しくなった。


 フゥ、とため息を吐いて額の汗を拭ったのと同時に、タコの脚に何かが絡まっているのが見えて、界人はそれをつまみ上げてしげしげと観察した。




 これは――どっかで見覚えのある、青い何か。


 何かこう、とてつもなく大きくて丸いものを支えるかのような形をしている布。


 なんだろう、これ……としばらく記憶を辿っていると、「界人君!!」という声が背後に聞こえた。




「ん? 榛原さ――」

「振り返るなッ!!」




 途端に、猛烈な勢いでその先の行動を阻まれ、界人は慌てて正面に向き直った。




「それ、私の水着! タコに取られちゃったの! 絶対振り返っちゃダメ!! 言っとくけど、女の子はタコに水着取られた時の姿を見られるのが一番嫌なものなの! わかる!?」

「え――?! そ、そうなの!? 女の子って誰でもそんなレアケース想定して生きてるの!?」

「生きてるもんなの! いいからそれを後ろに投げて! なるべくそのヒモの部分掴んでね! そしたら私がいいって言うまで振り返っちゃダメ! わかった!?」

「う、うん……」


 言われた通りに水着を放り捨て、正座でじっとしていると、「よーし、もういいよ」という声がかかった。


 それでも振り返るのを躊躇していると――榛原アリスが界人の隣に来て、おおっ、と声を上げた。




「うわ、タコじゃん、本当にタコじゃん! 界人君、やったじゃん!!」

「う、うん。なんとか上手く行ってよかったよ……」

「もー、もう少し自慢してもいいんだよ、界人君! 凄いことじゃん、こんな壊れた錨ひとつでタコ取っちゃうんだもん! 他のクラスメイトじゃ誰も出来ないよ!」




 そう言って、榛原アリスは屈託なく笑った。


 その瞬間、おっ、と界人は声を上げ、弾けるような笑みを浮かべた榛原アリスの顔をまじまじと見つめてしまった。


 しばらく見つめられた榛原アリスが、徐々に戸惑うような表情になった。




「界人君――?」

「ん? あ、いや、なんかよくわからないけど――なんか今、ちょっと変な気分になったから……」

「ふぇ?」

「これ、なんていう感覚なのかな……。ちょっと確認したいんだけど、俺って今、榛原さんに褒められたってことでいいんだよな?」

「うん、そうだよ?」

「そうか……今の俺、もしかしたら嬉しいのかもな」




 界人はなんだかもぞもぞとした感覚を覚えた首の辺りを手で掻いた。




「でもなんでかなぁ、例えば大きな魚を釣り上げて、よくやったって爺ちゃんに頭を撫でてもらったときとか、こんな気分じゃなかったと思うな。榛原さんに褒められると――うん、なんだか違う。もっともっと、なんだかムズムズするというか……」




 自分でも情けない告白だと思えるその一言に、界人は榛原アリスから視線を逸した。




「俺、やっぱりおかしいのかな。自分じゃよくわかんないわ。榛原さんと爺ちゃんとで褒められて違うはずないのに――榛原さんに褒められると、もっと褒められたいって思えるというか――」




 自分でもその感覚を言い表すのに窮して、後半は尻切れ蜻蛉になってしまった。


 おそらくこの場合、同年代の男子生徒なら魚や山菜の話なんてしないのだろうが、界人には価値基準がそれぐらいしかない。


 やっぱり自分は救い難くズレているのだ――なんだか情けなくなってしまうと、ぽん、と頭に何か温かい感触が触れた。


 目だけで上を見ると、隣の榛原アリスの掌が界人の頭の上に乗っていた。




「榛原さん――?」

「界人君、やっぱりズレてんね」

「あ、ああ、やっぱりそうか?」

「でも、重ね重ね言うけど、悪いズレ方じゃない。とっても素直で、とっても謙虚なズレ方してると思うよ」




 そう言いながら、榛原アリスの掌がゆっくりと界人の頭を撫でる。


 思わず目を閉じてしまいたくなるほど心地よく、温かな掌の感触だった。


 むずがって目を細めてしまった界人を、榛原アリスがニヤニヤと見つめた。




「おおっ、いい表情するなぁ。こうやって褒めた方がよさそうだね。界人君、よくできました。偉い偉い」




 そのまま、ぐりぐりと頭を撫でられる。


 まるで小さな子どもを褒めるようなやり方だったが、不思議と悪く感じなかった。


 


「あっ、あの……榛原さん、もういいだろ? そろそろ手を退けてくれ……」

「ヤダ。だって界人君、物凄くいい顔するんだもん。猫みたいだからもうちょっと」

「ねっ、猫って……! もう少し怖そうな動物に例えられないか!?」

「んじゃあ柴犬」

「柴犬……!? あの、あんまり変わってない気がするんだけど……!」

「いいじゃん柴犬。ああ見えて結構怒った顔すると怖いし。柴犬カイト、偉いぞ。よーしよしよし」




 榛原アリスは何がそんなに面白いのか、戸惑う界人を見てケラケラと笑った。

 やっぱり女の子ってわかんない生き物だなぁ、と半ば呆れて海を見てしまった界人の目に――あるものが飛び込んできた。




「おっ」

「うぇ?」

「見えた――! あの岩場の影に伊勢海老がいた! アレは絶対伊勢海老だ、ザリガニじゃなかったぞ!!」

「え、い、伊勢海老!? しかもこんなところから!? 界人君、どんだけ目いいの!?」

「ああ、視力は今も2.8ぐらいあるんだ! ――よっしゃ、伊勢海老ぐらいならなんとかこのカギで行けるかもしれない! 榛原さん、ちょっと待っててくれ!」

「あ、ちょ、界人君――!」




 榛原アリスの声にも構わず、界人は海へざぶざぶと分け入っていった。




 結局その日の夕食には、タコと、そして巨大な伊勢海老が並ぶこととなった。




◆◆◆




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