第42話やるべきことは恐怖との対峙

 その瞬間、界人の全身に感じたことのない悪寒が走り、界人は顔を上げた。




「え、界人君……?」

「黙って!」




 榛原アリスを鋭く静止して、界人は意識を嗅覚と聴覚に集中させた。




 なんだろう、この臭い――いや、気配は。


 今朝格闘を繰り広げたヒグマの、あの臭いとも違う、嗅いだことのない臭い。


 だがわかる。これはヒグマなどではない――もっと圧倒的な生物の臭いだ。




 その気配の出処を慎重に見極め、界人は気配のする森の奥の方を凝視した。


 そう、昼でも薄暗い木立の向こうに、「それ」がいる。


 ほとんど物質的なほどに濃い「それ」の気配に、界人の全身が粟立った。




 今まで界人が暮らしてきた山の中で重要なことは、見極める能力だ。


 自分が登ろうとしている崖は、自分の能力で安全に踏破できる高さだろうか、この食べ物は果たして安全に口にできるものだろうか、この水は飲めるのか飲めないのか、この晴天はあと何時間で大雨に変わるのか――。


 その経験を踏まえて――たった今、風に吹かれて己に届いた臭いは、この気配は、ヤバい。


 界人の、決して言語化することが叶わない何かの感覚がそう告げていた。


 勝てるとか勝てないとか、逃げるとか撃退するとか、そういうことを考えることすら不可能ななにか。


 とにかく出会ってはならないもの――この原野において、人間など一方的に狩られるべきエサでしかないのだと、そう理解させるに足る何かを持つ、怪物の気配だった。




 そう、それは人生で一度も感じたことのない、「戦慄」としか言えない危機感。


 界人の背筋を、つっ――と、冷たい雫が流れ落ちた。




 しばらく、雷で打たれたかのように硬直して。


 ようやく、こちらをじっと注視していたらしい「それ」が、自分たちに興味をなくしたのがわかった。


 徐々に、徐々にではあるが、ゆっくりと離れていく「それ」の気配に、界人は安堵のあまり、その場にへたり込みたい衝動に駆られた。




「ヤバい――」

「か、界人君、どうしたの? 何があったの――!?」

「とにかく、よくわからんけど――とんでもない奴が近くにいる。榛原さん、東山さん」

「はっ、はい!」

「とにかく、ありったけの水を汲んだら、今日の探索は中止だ。元いた砂浜に帰ろう」

「かつ、界人君、ちゃんと説明して! 一体何がどうなって――!」

「俺にだってわからない! 説明のしようがないんだ!」




 思わず大きくなってしまった声に、榛原アリスがびくっと身体を竦ませた。




「とにかく、今は俺の勘を信じてくれ! ここにいたらヤバいんだ、すぐ水を汲んで帰ろう!!」




 そう怒鳴りつけた後――榛原アリスの碧眼が恐怖に揺れるのを見て、はっ、と界人は我に返った。




「あ、ご、ごめん――!」

「う、うん……ごめんね、私の方こそ……」




 どうやら、今の自分は自分が考える以上に恐ろしい顔をしているらしかった。


 榛原アリスの目には強い怯えの色が見られ、その目であろうことか自分を見つめている。


 しばらく、界人は落ち着けと自分に念じてから、それでもまた口を開いた。




「……なんというか、説明できない気配を感じたんだ。ここにいたらヤバい。それだけは間違いない。悪いけど、今だけは俺に従ってくれ。こんなところで二人を危険に晒したくないんだ」




 界人の言葉に、ようやく怯えの色が消えた榛原アリスが頷いた。


 東山みなみはまだ怯えた表情で、界人と榛原アリスを交互に見つめている。




 その後、元いた砂浜に帰るまで――全員が無言だった。






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