第9話やるべきことはタコ鉤漁
「界人君! ここ、多分界人君の言った通りの穴がある!」
珊瑚礁の中に分け入って数十分後、白い肌に青いビキニが眩しい榛原アリスが声を上げた。界人がざぶざぶと海を蹴立てて駆け寄ると、ここ、ここと榛原アリスが足元の海を指さした。
海を覗き込んでみると――確かに珊瑚に覆われた岩の間にハンドボール大の穴があった。そしてその入り口の周囲には幾つかの二枚貝の貝殻、そして食い残しと思われる甲殻類の手足までもが散らばっている。
「よし……これは確実にこの穴の中にいるな。これを仕留めないと、今日の晩御飯が貝だけになってしまう。頑張んなきゃ――」
「かっ、界人君、いい加減説明してよ。中に何がいるの?」
「タコだよ」
「タコ――!?」
榛原アリスが素っ頓狂な声を上げた。
「沖縄だかの海ではこうやってタコ漁をするんだって聞いたことがあるんだ。タコは悪食だから、こうやって穴の入り口に食べ散らかした貝殻が散らばっている。それを見つけたら中にタコがいるってことだ」
界人はそこで、折れたアンカーを示した。
「そこをこれで引きずり出す。タコは八本足で、しかも吸盤つきだから、おそらく簡単には取れないと思う。けれど、魚を捕まえる手段がない以上、確実なのはこれだけだ。なんとか頑張ってみるよ」
界人の説明に、榛原アリスが頷いた。
「今晩はタコ焼きってことね」
「ああ、上手く行ったら本当の意味でのタコ焼きになるな」
「界人君、頑張って!!」
「よっしゃ、ちょっとやってみる。行くぞ――」
界人は覚悟を決めて息を大きく吸い、海の中に顔を突き入れた。
海水越しでゆらゆらと曖昧になった視界に穴の正面を捉え、少し観察する。
しばらく穴を観察すると――にゅる、という感じで、吸盤付きの足が穴の縁に漏れ出た。
(いた――!)
すかさず、界人はアンカーを穴の中に付き入れ、頃合いを見計らい、渾身の力で引っ張った。
途端に、アンカーの先端が何か軟体のものを捉える感覚がして――ぐっ、とアンカーが穴の中に引き込まれた。
界人は上半身の力を総動員してタコを引きずり出しにかかるが、流石は八本足、抵抗は激しかった。吸盤を穴の壁に吸い付かせ、足を複雑に絡ませて、タコは引きずり出されまいと必死に抗った。
息が続かず、界人は顔だけを海面上に出して、荒く息を継いだ。
「界人君――!」
「いたぞ、榛原さん! タコを引っかけた! なんとか頑張ってみる!」
「おおっ、さすが界人君! 頑張って! 私に出来ることある!?」
「ない! けど、せっかくだから榛原さんはそこで俺を応援しててくれ!」
「よーし、頑張れ頑張れ! 頑張れ界人君! タコなんかに負けないで!」
「よし、思ったよりやる気が出てきた! 結構頑張れそうな気がする! 行くぞ――!!」
界人は足を岩に突っ張り、渾身の力でアンカーを引っ張った。途端に、ボコッ、という感覚がして、タコが掴んでいた岩の一部が崩れた。
タコが慌てたように足を水中にくねらせるが、その一瞬が勝敗を分けた。その隙を見逃さず、界人は雄叫びを上げながらタコを水中に引きずり上げる。
タコが穴から引きずり出された。しかし足をアンカーと言わず界人の腕と言わずに絡ませ、まだ抵抗する構えを見せるが、穴から出た時点で界人の敵ではない。
左手で腕に引っ付いた吸盤を毟り取り、委細構わず引きずり上げると、遂にタコが水面上に出た。
「やった――!」
榛原アリスの声が聞こえて油断した、その瞬間だった。タコの目が一瞬キラリと光ったように見えた途端、ビチャ、という音と共に、視界が暗くなった。
「うわ――!?」
墨を吐かれた、と気づいたのは、視界の箸に映る海面が黒く汚れているのを見てからだった。
急に暗くなった視界にパニックを起こし、手足を振り回したその瞬間、アンカーからタコが吹き飛んだ。
吹き飛んだ先に立っていたのは――当然この場には榛原アリスひとりであり、「ギャア!」という悲鳴が聞こえて、界人は慌てた。
「はっ、榛原さん――!」
「いやあああああ、気持ち悪い! 界人君、取って取って取って!!」
「ま、待ってくれ! 墨が目に入って視界が……!」
「ウギャアアア! ヌルヌルするぅ! 早く取って! 早く――!」
「ちょ、ちょっと待って! 今海水で洗うから――!!」
手探りで海面を見つけ、顔を突っ込んで目をめちゃくちゃに拭うと、なんとか視界が戻ってきた。
大急ぎで榛原アリスに向き直った界人は――瞬間、は、と固まった。
「いやああああああ!! はっ、早く取って!! ヌメヌメするよぉ!!」
おお、これは――なんというか、見ものだ。
かなりの大物と見えるタコは、怒り心頭の様子で榛原アリスの上半身に巻き付き、これまたかなりの大物である榛原アリスの胸を好き勝手に凌辱している。
半泣きになっている榛原アリスの真っ白な肌の上を赤黒いタコの足がヌメヌメと蠢き、吸い付くやら撫でるやらの大騒ぎ。
金輪際見ることがないだろう、その奇妙な光景に――界人は思わずやるべきことも忘れて見入ってしまった。
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