21話 いい匂い

 ――スマホのアラームがけたたましく鳴り響く。

 久々の機械音にうっとおしく思いながら目を覚ました俺はアラームを解除すると、のっそりと上半身を起こした。


 今日は結婚式。

 いつもより早い時間に起きてほしいと葉月に言われたため、こうして休みの日にわざわざアラームをかけていたのだ。


 腕を上げて大きく伸び、恋しい気持ちを押し留めてベッドを出る。

 そうして一階に降りてくると、案の定リビングでは葉月がダイニングチェアに座りながら手帳をテーブルに広げて、それとにらめっこしていた。


「おはよう、葉月」


 隣の椅子に腰を掛けながら声をかけると、こちらに気づいた彼女は顔を上げる。


「おはようございます、お兄さん。すみません、せっかくの休みなのに」

「いいよ、葉月が謝ることじゃない。弥生はまだ起きてきてないのか?」

「お姉ちゃん、朝がちょっと苦手なんです。だから、起きてくるのにもう少しかかるかと」

「なるほど。だから遅れてもいいように少し早めに起きてくるように言ったのか」

「その通りです」


 結婚式の準備があるとはいえ、現在の時刻は約五時半。

 起きるには少し早すぎるような気もしていたのだが、どうやら弥生が寝坊してもいいようにこの時間設定らしい。


 しばらく学校もなかったし、いつもよりも気持ち遅めに起きていた俺たちだ。

 朝が苦手なら、寝坊してもしょうがない。


「お兄さんは、朝に強い方なんですか?」

「そんなに強くはないな。でも起きなきゃいけない用事があるときには、基本何時にでも起きられる」

「すごいですね」

「眠いけどな」


 弥生が起きてくるまでの間、俺と葉月は他愛もない雑談をする。

 こうして葉月とラフに会話するのは、もしかしたら初めてかもしれない。


 そう思うと、余計に彼女との会話が楽しく感じてきた。


「葉月こそ、朝は強そうに見えるけど」

「そんなでもないですよ。ただ、一応規則正しく生活はしているつもりなので、多少早く起きても融通が利くってだけです」

「ほう、ちなみに昨日寝た時間は?」

「十時ですね」

「早ぇ……」


 俺なんか翌日が休みのときは日をまたぐってのに。


「言っちゃあ悪いけど、すごいよな。不登校なのに規則正しく生活できるって。俺なんか生活リズム崩れまくりだったもん」

「お兄さんも不登校だったことがあるんですか?」

「あぁ、前の母さんを亡くしたときに少しだけな」

「……すみません」

「気にしてくれてありがとう。でも今はもう大丈夫だから、気にしなくていいよ」


 暗い顔をして謝る葉月に、俺は笑みを見せる。


「だからさ、実を言うと少し心配なんだ」

「心配?」

「無理してるんじゃないかって」

「無理はしてるつもりないですけど……」

「今はそうかもしれないけど、ちょっと前までは母さんと弥生と三人で生活してただろ? だから『自分がしっかりしないと』って思ったりしたんじゃないかって思って」

「それは……」


 葉月の表情が、一瞬だけ曇る。

 それを、俺は見逃さなかった。


「……弥生から聞いたよ。前のお父さん、不倫してて、それで離婚したんだって」

「…………」

「弥生もそうだったんだ。落ち込む母さんを見て『自分がしっかりしなきゃ』って思ってたって。だから、もしかしたら葉月もそうなんじゃないかって」


 嫌いな勉強も、苦手な運動も、母さんのために頑張った。

 それをいつしか周りに評価されるようになり、それに縛られるようになったと、先日一緒に勉強をしたときに弥生は言っていた。


 なら葉月も同じく母さんのために料理を頑張って、規則正しく生活をして。

 それに縛られているんじゃないかと俺は考えた。


そして出来るなら、俺は呪縛とも言えるそれを解いてあげたかった。


「……お母さん、すごく落ち込んでたんです」


 長い沈黙の後、葉月はゆっくりと喋り始めた。


「好きだった前のお父さんに裏切られて、動けなくなって。今までほとんどの家事をお母さんがしてましたから、一時はご飯も洗濯もままならなかったんです。だから家事が分担制になりました。私が料理を担当して、お姉ちゃんが洗濯をして、掃除は二人でする。お母さんは働き始めたからなかなか家事も出来ませんでしたし、私がちゃんとしないとみんながお腹を空かせてしまうので、確かに『自分がしっかりしなきゃ』とは思ってたかもしれません」

「そっか……ごめんな、こんな話を掘り返しちゃって」

「いえ。だから、再婚するって話を聞いたときはすごく嬉しかったんです。でも、それと同時に警戒もしてました。またお母さんを傷つけるような人だったらどうしようって」

「だから最初は無愛想だったんだな」

「もともと人見知りもあって、上手く話せませんでした……すみません」

「いいよ。もう気にしてない」


 俺の笑みを見た葉月は、安心したように目を細めた。


「でも、そしたら大変じゃないか? 毎日早く起きて朝ご飯を作って、規則正しく生活をしてって。気が向かないときだってあるだろ? たまには俺が変わろうか?」

「確かに大変ですけど、でも大丈夫ですよ。料理も好きだし」

「何かしてほしいことがあったら遠慮なく言えよ。なんでもするから」


 弥生もそうだが、個人的に俺は葉月の方を心配していた。

 毎日決められたことをしなければいけないのは、心が不安定な不登校時に最悪だ。


 不登校は一種の拒絶反応みたいなものだが、それにはストレスから一旦離れて心身ともに回復させる深層心理の目的がある。

 それなのに家でもストレスになりそうな事があっては、一向に心が休まらないんじゃないかと心配だったのだ。


 それでも彼女は大丈夫だと言っている。

 嘘ついていることはないと思うのだが、少し強がっている気がしないでもなかった。


 だから、どうにかして少しでも彼女に休んでもらいたいとそう言うと……。


「なら……一つだけ、いいですか」

「なんだ?」


 してほしいことがあることに嬉しく思いながら聞き返すと、葉月は少しだけ視線を下げる。


 そうしてみるみるうちに頬が赤く染まった。


「……葉月?」


 名前を呼んでも、彼女は反応してくれない。


 何やら恥ずかしそうに体をよじる彼女だったが、やがてぽつりと一言。


「……ぎゅって、してほしいです」

「へっ?」


 聞き間違いだろうか。


「も、もう一回言ってもらってもいいか?」

「お兄さんに、癒やしとして、ぎゅってしてほしいんです」


 ぎゅっ、ってあれだよな?

 いわゆる「ハグ」ってやつだよな?


「……なんで?」

「お兄さんとぎゅってするのが、癒やしになるからですっ」


 やけになったのか、顔を上げて迫ってくる葉月。

 その姿は、昨日の弥生と完全に一致していた。


「いやいや、俺とハグしたってなんの癒やしにもならないだろ?」

「なるから言ってるんじゃないですかっ。なんでもしてやるって言ったのはお兄さんですよっ」

「それは、そうだけど……」


 てっきり料理当番を変わってほしいとかそんな感じのことを言われると思っていたから、まさかハグしてほしいと言われるとは思わなかった。

 せっかく葉月は妹として見られそうだったのに、これでは葉月のことまで意識してしまうかもしれない。


 そう思い、渋っていたが。


「……ダメ、ですか?」


 潤んだ瞳で不安そうに、上目遣いに見上げてくる葉月。


 ……それは反則だよ。


「……ほら、来い」


 高鳴る鼓動を必死に抑えながら腕を広げると、葉月は嬉しそうに笑みを浮かべながら胸に飛び込んでくる。


 瞬間、ふわっと香る葉月の匂い。

 少し甘くて、長い間吸っているとぼーっとしてしまいそうな、そんな安心する匂いが俺を包みこんだ。


 同じボディソープ、同じシャンプー、同じリンス。

 ましてや服を洗う洗剤や柔軟剤まで、どれも一緒のものを使っているはずなのに、どうしてこんなにも俺とは違ういい匂いがするんだろう。


「……いい、匂いです」

「そ、そうか」


 耳元で囁かれる葉月の蕩けきった声が、余計に俺をドキドキさせる。

 それと同時に安心もして、もう何が何だかよく分からなくなってきた。


 しかし。


「……何してるの?」

「っ――!?」


 背後から聞こえる強張った声に、俺の脳は一瞬にして覚醒するのだった。

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