32話 好きだから、大好きだから

 夏休み最終日。

 私は自室の机で時間割を見ながら、心に深い影を落としていた。


 ――調理実習。

 献立を立て、調理をし、試食をし、後片付けをするといった、将来生活する上でなくてはならない一連の内容を身につける家庭科の授業。


 私は、それが苦手だった。

 理由は単純明快、料理ができないから。


 だけど、私はただ単にその授業が苦手というわけじゃない。

 失敗して、上手くできなくて、それが自分の中で収まるのであればここまで調理実習を嫌いはしなかった。


 でも、その姿は当然周りの友達にも見られる。

 同じ班であれば尚のこと私に注目するだろう。


 それが私は嫌だった。


 常に完璧であり続けようとした私が、みんなの中に形成された私の像が、壊れてしまうから。


 そうして、幻滅されるから。


 朝陽君にだけは見られてもいい。

 彼は、私のありのままをすべて受け入れてくれるから。

 何なら、不完全な私に安心さえするから。


 そういう彼になら、私も安心できるから。


 でも、他はそうじゃない。

 いや、そうじゃない


 もし幻滅されたら?

 それで距離を取られてしまって、今の関係が崩れてしまったら?



『なんか、いつもの弥生じゃないね』



 ――怖い。


 完璧な自分を偽って、他人と接して、それでも大切な友達だって言うのはおかしな話かもしれない。


 それでも、私にとっては大切な友達だった。


 そんな友達を失うのが怖い。


 もう、あんな思いはしたくない。


 だから、私は朝陽君に相談することにした。


「ねぇ、朝陽君」

「どうした?」


 私は自室で寛いでいた朝陽君を訪ねた。


 料理を教えてもらうために。


「料理?」

「ほら、夏休みが明けてちょっとしたら調理実習があるでしょ? だから、それに向けて朝陽君に教わろうと思って」

「……それって、周りに幻滅されるのが怖いからか?」


 やっぱり、朝陽君には隠せなかった。

 貼り付けていた笑顔が剥がれ落ちていく。


 きっと朝陽君なら、そのことも気づいていただろう。


「……そうだよ。怖いの。私が料理できないことを知られたら、もしかしたら幻滅されちゃうかもしれない」

「でもほら、前にも言っただろ? それが逆に好印象に繋がるかもしれないって――」


「それでも怖いものは怖いんだよ!」


 あまりにも居心地の悪かった朝陽君の優しい声に意識が飛ぶ。

 気がつけば、朝陽君は驚いたように目を見開いていた。


 そりゃそうか。


 だって、私が突然大きな声を出したんだから。


 でも、もう止められない。


 駄目だって分かってても、私は自分の思いを吐き出し続けることしかできなかった。


 良くも悪くも、本当の私は朝陽君の前で現れないから。


「朝陽君は何も分かってない! 大切な友達との関係が崩れるのがどんなに怖いか! どんなに寂しいか! だから平気でそんなこと言えるんだよ! ……知ったようなこと言わないで!」


 ……駄目。

 駄目だよ、そんなこと言っちゃ。


 朝陽君だってちゃんと分かってる。

 形は違えど、彼だってちゃんと大切な人との別れを経験してる。


 それも私より遥かに重い、永遠の別れを。


 朝陽君は一瞬だけ眉をひそめたけど、すぐに俯いた。

 そして、絞り出すように呟いた。


「……ごめん」


 謝ってほしくなかった。

 だって、朝陽君が悪いわけじゃないから。

 悪いのは全部私だから。


 でも、頭がそう言ってるだけ。

 今の私を動かしているのは、古傷の残った心だった。


「でも、弥生はそのままでいいのか? 本当の自分を隠して、偽りの関係をつくって……それこそ、怖くないか? 寂しくないか?」

「怖くない。大切な人が離れていくほうが、よっぽど怖いよ」

「じゃあ、なんで弥生は?」


 心臓を強く掴まれたような衝撃が走る。


 何も、言い返せなかった。


「『俺とは本物の関係をつくりたかった』そう思ってくれたから、弥生は本当の自分を見せてくれるようになったんじゃないのか?」

「それは……」

「それとも、俺は大切な人じゃないのか?」


 ……ずるい。


 朝陽君は、紛れもなく私の大切な人。


 私の、好きな人。


 そんな人にそう言われては、何も言い返せない。


 でも、だからこそ……


「みんな、本当の弥生を必ず受け入れてくれる。俺が本当の弥生を受け入れたように。だから――」


 朝陽君の手が迫ってくる。


 優しくて、あったかくて、安心できて。

 ……好きな人の、手。


 好きだから、大好きだから……私は、思わずその手を振り払ってしまった。


「触らないで!」

「っ――!?」


 心が痛かった。


 こんなことしたくないのに、言いたくないのに、気づけば私の口は勝手に言葉を紡いでいた。


なら、そんなことしないで……!」


 私は知っている。

 朝陽君が、私を異性として意識しないようにしていることを。

 私と、何なら葉月と、そういう関係に発展しないようにしていることを。


 隠していたつもりだったんだろうけど、バレバレだった。

 そして、そのことに苦労していたのも。


 それでも朝陽君は、私を元気づけるためなら手段を選ばない。

 今だって、私を抱きしめて安心させようとしてくれた。


 その優しさがとっても嬉しくて、とっても苦しかった。


 付き合えないって、知ってしまったから。


「……とにかく、俺は弥生に料理を教えることはできない。教わりたいんだったら、葉月に言ってくれ。きっと俺に教わるよりも、できるようになるから」


 朝陽君の表情は、とても寂しそうだった。

 とても辛そうだった。


 そんな中でも、朝陽君は最後まで私のことを想ってくれた。


 そんな朝陽君の優しさに触れて、私もまた辛くなる。


 耐えられなくなって、私は部屋を飛び出した。


 ドアを閉める直前、「ごめん」って、聞こえたような気がした。


 ……涙は、出なかった。

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