三章 過ぎ去りし時を求めて

53話 弥生の裸

「――弥生、体を拭くタオルを持ってきたぞ」


 夕食後、俺は部屋で待っている弥生にお湯の入ったバケツとタオルを持ってきた。


 両足を怪我している弥生は生憎と風呂に入ることができない。

 だからこうして少しでも体を清潔に保つ必要がある。


「ありがとう。ごめんね、わざわざ持ってきてもらっちゃって」

「謝る必要ない。言っただろ、俺がちゃんと面倒見るって。むしろ面倒見たいってくらいなんだから、弥生が気に病む必要なんかないよ」

「ありがとう」


 弥生のお礼に笑顔を返しながら、バケツとタオルを彼女の側に置く。


「本当はお風呂入りたかったんだけどなぁ。一週間くらいこれで絶えないといけないんだよね?」

「そうだな」


 年頃の女の子にとって、風呂に入れないというのはいささか致命的だろう。

 俺も弥生を風呂に入れてあげたい気持ちは山々なんだが、そうなると彼女と一緒に風呂に入らなければならない。

 いくら付き合い始めたとはいえ、それはまだ早すぎる。


 いや、一緒に風呂に入りたくないかと言われれば首を横に振るのだが、流石にまだ心の準備ができていなかった。

 だからしばらくの間、彼女にはタオルで我慢してもらうしかなかった。


「朝陽君がお風呂に入れてくれたっていいんだよ?」

「無理、まだ早すぎる」

「えぇーそんなぁ……」


 ニヤニヤしていた表情が一変、ガッカリといった様子で視線を落とす弥生。


 こいつ、自分の裸を晒す羞恥心を持ち合わせていないのだろうか。


「じゃあ、体をタオルで拭いてもらうのは?」

「根本的な問題が何も変わってないんだが?」

「問題って?」

「弥生の裸を俺が見ることに決まってるだろ……」


 あまりにも危機感のない弥生に、今度は俺が肩を落としてしまう。


 信頼してくれているといえば聞こえはいいが、最低限の自衛の心は持ち合わせておいてほしかった。

 こんな調子でいられたら、俺もいつまで理性が利くか分かったものじゃない。


「私は別に、朝陽君にだったら見られてもいいよ……?」

「っ……そういう問題じゃない」

「背中だけでもいいから、お願いっ!」


 両手を顔の前で合わせた弥生が懇願するように頭を下げてくる。

 その勢いに若干気圧された俺は上半身を仰け反らせつつも、目を閉じて真剣に考える。


 これは……弥生のお願いを許してもいいのだろうか。

 いや、いいかと問えばきっといいのだろう。


 俺と弥生はもう恋人だ。

 そういう事をしてても何らおかしくはないし、誰かに咎められるいわれもない。


 それに、たかが弥生の背中を拭くだけだ。

 そういう、いわゆるペッティングに走るわけでもない。


 だから……いや、やっぱり今日はやめておこう。


 だって初日だぞ?


 たとえ弥生の裸が見たかったとしても、そこまでの心の準備はまだできていない。


 ……って、同じことをさっきも考えたじゃないか。


 ということは、俺の答えは弥生のお願いを拒否することなのだ。

 うん、絶対そうだ。


 そう思い込ませて目を開いて、俺は「うっ」と呻き声をあげてしまう。

 なぜならそこには不安げな瞳で俺を見つめてくる弥生の姿があったからだった。


「ダメ……?」


 だから、それには弱いんだよ……!


 俺は心の叫びをその中だけに押しとどめて、代わりにため息をつく。

 そうして半ばヤケクソ気味に言葉を吐き出した。


「……分かった! やればいいんだろ、やれば!」

「やった、ありがとっ」

「感謝はいいから、早く服を脱いでくれ。あっ、上の服だけな、余計な所まで脱ぐんじゃねぇぞ」

「分かってる分かってる」


 弥生の嬉しそうな声を最後に受けて彼女に背を向けると、早速衣擦れの音が聞こえてきた。

 シュルシュルとなんの滞りもなく音が聞こえてくることから、自分の体を見られることになんの抵抗感もないことが分かる。


 こいつ、実は痴女だったりしないだろうか……。


「はい、脱ぎ終わったよ」


 弥生に言われて密かに高鳴り始める胸を押さえながら振り向くと、そこには彼女の白くて綺麗な背中があった。

 彼女が車椅子に座っている関係上どうしても斜め後ろから彼女を見ることになってしまって、背中とは真逆の位置にある柔らかそうな膨らみも僅かに見えてしまう。


 見てもいいのは分かってるけど、どうしても見てはいけないものを見てしまったような気がして、思わず視線を逸らした。


「……どう?」

「どうって……何が」

「このままでいるのも気まずいから、なんか感想が欲しいなぁ……なんて」


 気まずくしたのはどこのどいつだよ……。


 まぁ、こういう我儘なところも弥生で、それが好きな俺もいるから一概にはなんとも言えないが。

 とりあえず気まずいのは俺も同じなので、恥ずかしい気持ちを何とか抑え込んで感想を口にする。


「……綺麗だよ」

「そっか。なら、よかった」

「俺はよくない。さっさと終わらせるぞ」

「えへへ、はーい」


 満足気に笑みを漏らす弥生の背中を、お湯に濡らしたタオルで優しく拭いていく。

 その中で、俺はふと気になったことを聞いてみることにした。


「どうしていきなり背中拭いてほしいなんて言い出したんだ。やろうと思えば自分で拭けただろ、そんなに小さなタオルじゃないんだし」

「それは、カップルのスキンシップというか……」

「ここまで焦らなくても、一歩ずつ進んでいけばいいんだぞ」

「でも……やっぱり、まだちょっと不安だから」

「不安?」

「朝陽君が、葉月のところに行っちゃうかもしれないし……」


 顔を見なくても、覇気のない声でどれだけ弥生が不安がっているかが伝わってくる。


 だからこそ、バカだなぁって思った。


 いつもより少しだけ小さく見える弥生の背中から、俺は彼女のことをぎゅっと抱きしめる。


「大丈夫、俺にはもう弥生しか見えてないよ」

「朝陽君……」

「弥生と付き合ったっていうのは、そういうこと。もう弥生しか見ないし、弥生しか見えない」


 告白は、ただのイベントじゃない。

 ちゃんと君だけを見て、君だけを愛しますという誓いだから。


「だから、これからも恋人だよ」

「っ……!」


 弥生が俺の手に自分の手を添えてくる。


 そうして、深く頷きながら言うのだった。


「うん……!」


 ……まぁ、とは言っても付き合い始めたばかりなんだけどな。

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ある日突然2人の義妹が出来たので、それを期に俺は全力で人生を謳歌します。 れーずん @Aruto2022

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