35話 ずっと
――俺は空き教室の引き戸を勢いよく開ける。
その隅では、辛そうに蹲っていた弥生が目を見開いてこちらを見ていた。
「朝陽、君……」
彼女が、俺の名前を呼んでくれた。
ずっと聞きたかった、彼女の声だ。
安心してしまったのか、俺はその場で膝をついてしまった。
「朝陽君!?」
必死に酸素を貪る。
ここまで一直線に走ってきたので、心臓に負担がかかってしまったのだろう。
本当に、使えない心臓だ。
弥生が駆け寄って背中を擦ってくれる。
その手はまるで魔法を纏っているかのようにあったかくて、不思議とみるみる動悸が治まっていく。
「大丈夫……?」
「あぁ、何ともない。それよりも、弥生の手首を見せてくれ」
「て、手首?」
「隠したって無駄だ。火傷したんだろ?」
「っ……」
弥生は俺の背中を擦るのをやめると、おずおずと両手を差し出してくる。
その手首周りは、ほんのりと赤く染まっていた。
「……冷やしたか?」
ふるふると首を横に振る弥生。
「じゃあ、まずは冷やしに行こう。話はそれからだ」
俺は弥生を連れ近くの手洗い場に向かうと、火傷の痕に冷水をかけた。
おそらく、加熱した具材やなんかが触れてしまったのだろう。
ある程度時間が経ってしまっているのでそこまで効果はないかもしれないが、やらないよりは確実にマシだった。
「痛いか?」
「……痛い」
「ごめんな。料理、教えてあげなくて」
「そんな、朝陽君は何も――!」
言いかけて、黙り込んでしまう。
一瞬怒っているのかと不安になったが、彼女の表情を見る限りそういうわけではなさそうだった。
気まずい雰囲気の沈黙が続く中とりあえず患部を冷やし終えると、人目につかないよう空き教室に戻って来る。
どう話を切り出そうか迷っていると、弥生は再び教室の隅で座り込んでしまった。
「……みんなは、どうしてた?」
「弥生を心配してたよ。聞こえなかったか? 『大丈夫?』『熱くない?』って」
「聞こえなかった」
「……そっか」
弥生との間に人一人座れるだけの空間を開けて、俺も座り込む。
再度、この空間に沈黙が降りた。
……やっぱり、少し怖い。
また弥生に拒絶されてしまったら。
また弥生に否定されてしまったら。
そんな考えが脳裏をよぎる度に、思考が勝手に止まってしまう。
でも、とにかく何か伝えないと。
じゃないと、ずっとこのままだ。
それだけは絶対に嫌だ。
恐怖に加速する鼓動を感じながら、俺は覚悟を決めて口を開く。
しかし、先に声を発したのは弥生の方だった。
「ありがとう、見つけてくれて」
その声は、震えていた。
俯かせていた顔を上げて弥生を見ると、彼女の頬には涙が一筋だけ伝っていた。
彼女は、俯いていた。
「私、ずっと怖かった。失敗して、周りに幻滅されたらどうしようって。私から離れていっちゃったらどうしようって。でもいざ失敗して、周りの幻滅してる姿を見たくなくて、逃げて。ここで感じてたのは、不安じゃなくて……後悔だった」
「後悔?」
俺が聞き返すと弥生はコクリと頷き、俺の手をそっと握った。
さっき背中で感じたときは温かかったその手は、水を被っていないはずなのに、やけに冷たく感じた。
「……どうして、最初から朝陽君の言葉を聞き入れなかったんだろうって。そうすれば、たとえ失敗したとしても朝陽君がそばにいてくれたかもしれないのにって」
手の握られる力が強くなる。
それと比例するように、一粒、また一粒と、弥生の目尻から涙が零れ始めた。
「ごめんなさい、わがままだよね。自分から朝陽君を突き放しておいて、そばにいてほしいなんて」
確かに、わがままだ。
自分に都合のいいときだけ俺を突き放して、俺に縋って。
それだけに留まらずとも、最近はそのわがままに振り回されっぱなしだ。
でも、それで弥生を責める気にはなれなかった。
むしろ――。
「……でも、朝陽君には私のそばにいてほしい。分かったの。私にとって一番怖いのは『周りが私から離れていくこと』じゃない。『朝陽君が私から離れていくこと』なんだって。だから……だから……!」
弥生の言葉に熱が入る。
もしかしたら、その先に俺に伝えたい言葉があったのかもしれない。
でも俺はその前に、弥生を抱きしめていた。
「っ――!?」
前に抱きしめたときとは、違う。
少しでも力を入れたら、崩れてしまいそうなほど脆く感じる、弥生の体だ。
それが今もなお俺が弥生を怖がっている証拠かは分からないけど、少なくとも弥生の心が弱っている証ではあった。
そして、それが分かるだけでも十分だった。
「大丈夫。俺は、ちゃんとそばにいるよ」
「あ……あぁ……」
閑散とした教室に、弥生の嗚咽が響く。
だけどそれは決してネガティブなものではなく、まるで安心しきった反動で溢れ出してきているようにも感じた。
大丈夫。
弥生に悪気があって俺を突き放したわけじゃないって、分かってるから。
弥生はそういう人じゃないって、分かってるから。
だから、謝る必要なんてない。
弥生の頭を撫でながらそう言ったが、それでも弥生は言葉を零した。
「ごめんなさい……ごめんなさい……!」
思わず、頬が緩んでしまう。
謝らなくていいって言ったのに。
「ごめんなさい……!」
三回目のそれが聞こえたとき、俺は子供を叱るときのように大袈裟に眉をひそめながら弥生の顔を見つめた。
「それ以上は禁止。次『ごめんなさい』って言ったら、本当に弥生から離れるぞ」
「ご、ごめんなさ――」
俺に怒られたからか、弥生はもう一度謝ろうとする。
しかし俺の言葉を思い出したらしく、これ以上は言うまいと口を手で思い切り塞いだ。
その姿があまりにもバカっぽくて、思わず吹き出してしまった。
「あ、危ない……」
「よく言わなかった。言ってたら、本当に弥生から離れるところだったぞ」
「ほ、本当に離れるつもりだったの?」
「だって、それくらいしないと弥生は言うのをやめてくれないからな」
「でも、だって……」
何かを言いたげにしている弥生の頭を、俺は誤魔化すようにそっと撫でる。
「んぅ……」
不意を突かれたからか、気持ちよさそうな声を出す弥生。
まるで喘ぎ声のようにも聞こえてしまって、俺は撫でたことをちょっと後悔した。
「……なんだか、朝陽君に頭を撫でられたらどうでもよくなっちゃった」
「そりゃよかった」
弥生は俺の胸に体重を預けると、薄っすらと口角を上げた。
「……あったかい」
「ようやく笑ってくれた」
胸の内があったかいもので満たされていく。
やっぱり、俺の想いはそれだった。
「なぁ、弥生」
「何?」
キョトンとした顔で俺の顔を見上げた弥生に、俺は決心して言った。
「俺が弥生のそばにいるからさ、弥生には、ずっと笑っててほしい」
どう受け取られるかは分からない。
この言葉はそのままの意味にも聞こえて、全く別の意味にも聞こえてしまうから。
でも、俺は言いたかった。
これが俺の想いだから。
弥生には、すべて伝わったようだった。
そのままの意味も、まったく別の意味も。
しかし彼女は何か決意したような顔つきで、俺を突然抱きしめた。
その力は、さっきの脆さを感じさせないほど力強かった。
「私は笑うよ。ずっと、朝陽君のそばにいるから」
その言葉に隠された本当の意味を。
今の俺には、知る由もなかった。
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