34話 調理実習
「入夏君って、料理上手なんだね」
切った野菜を火にかけ炒めていると、ふと同じ班の女子が話しかけてきた。
「最初はそうでもなかったんだけどな。でも、最近は妹が料理を教えてくれてて」
「妹って、入夏さんのこと?」
隣でフライパンの中身を覗き込んでいたもう一人の女子が会話に加わってくる。
「いや、弥生の下にもう一人妹がいるんだ」
「へぇー。その子に教えてもらってるの?」
「あぁ」
フライパンを煽ると、中の野菜が空中で弧を描く。
それを目の当たりにした女子二人が「おぉー」と感嘆の声を上げた。
普段なら誇らしく思えるのだろうが、今は別のことが気になってしょうがなかった。
俺は野菜に火を入れながら、ちょっと離れたテーブルで調理実習をしている別の班を
そこでは、弥生がゆっくりと野菜を切っていた。
……大丈夫なのだろうか。
結局、弥生は料理を練習せずに調理実習の日を迎えてしまった。
俺自身も葉月のアドバイスを活かせず、弥生を元気づけることもできていない。
視線一つすら合わせず、お互いの間に亀裂が入ったままこの日が来てしまったのだ。
もし、弥生が何か失敗してしまったらどうしよう。
それで周りに幻滅されたら、果たして彼女は正気でいられるのだろうか。
不安だけが募っていく。
でも、かといってどうすることもできない。
俺は、弥生が失敗しないことを願うことしかできない。
それが余計に不安を煽った。
……どうして教えてあげなかったんだろう。
弥生があんなにも怯えていたのに、助けを求めていたのに。
それを俺は自分勝手なエゴで突き放してしまった。
今更になって後悔する。
教えてあげればよかった。
そうすれば、例えそれが偽りであったとしても彼女はいま笑っていたのに。
「……入夏君大丈夫? 顔色悪そうだけど」
「あ、あぁ、大丈夫。気にしないで」
暗い気持ちが顔に現れていることに気づき、俺は必死に笑顔を貼り付ける。
しかしそれも長くは持たずに、また顔を俯かせてしまっていた。
もう、弥生を見ることはできなかった。
◆
……どうしよう。
これで合っているのだろうか?
分からない。
でも、とりあえず野菜は切れた。
後はこれを炒めるだけ。
そうすれば、私の仕事は終わる。
この不安から解放される。
あと、もう少し。
「このフライパンを使っていいんだもんね?」
私は同じ班の女子に尋ねる。
「うん! それにしても弥生、野菜切るの上手だね! 切り口がきれい!」
「別に、上手じゃないよ。包丁だってそんなに握ったことないし」
「それでこれなの!? やっぱり弥生はすごいね!」
どうやら野菜は上手く切れたらしい。
でも、そのせいでまた私が持ち上げられてしまった。
こうなってしまうから、私は私を隠さなくちゃいけない。
一度上手くいってしまえば、もう後戻りはできないから。
少しでも戻ってしまえば、幻滅されてしまうから。
そうして、離れていってしまうから。
それだけはあってはならない。
上手く、やらないと。
フライパンに油を引く。
火をつけて、フライパンが温まるまで待つ。
ここまでは、授業で教わった通り。
練習しなくても間違わない。
でも、ここから先はどうしよう。
さっきチラッと朝陽君を見れば、彼は野菜を炒めるときにフライパンを煽っていた。
なんでフライパンを煽るのだろうか。
それは必要なことなのだろうか?
でも、朝陽君がわざわざ必要ないことをやるとも思えないし……。
……どうしよう。
私にできるのだろうか。
そもそも、どうやったらあんなきれいにフライパンを煽れるのだろうか。
「――弥生。もうそろそろフライパンあったまったんじゃない?」
「そ、そうだね」
考えていれば、すぐにその時が来てしまった。
とりあえず野菜を入れると、ジューと音が鳴る。
その音が、私の不安を余計に煽った。
「おぉー、いい音!」
「そういえば、入夏さんってフライパンを……煽るって言うの? あれ、できるの?」
「あれだけ野菜切るのきれいだったんだし、弥生だったらきっとフライパン煽るのもできるよね!」
「ま、まぁ……それなりには」
「見たい見たい! ちょっとやって見せてよ!」
駄目だと分かっていても、嘘をついてしまう。
そうして、自分の首を絞めてしまう。
「私も見たい!」
「私にも見せて!」
気づけば、ほかの班の人たちまで集まってきていた。
朝陽君がしてた時はほとんど見てなかったのに、どうして私の時だけ。
しかも、ただフライパンを煽るだけなのに……。
……でも、もう戻れない。
私は、これを成功させないといけない。
でないと……みんないなくなっちゃう。
鼓動が加速する。
失敗すれば全てが終わるという恐怖に、頭が真っ白になる。
たくさんの人が見ている中、私は力任せにフライパンを動かした――。
ざわつく家庭科室を一つの悲鳴が断ち切る。
作業を終わらせて椅子に座っていた俺は俯かせていた顔を勢いよく上げると、見回して声の元をたどる。
そこでは、大きな人集りができていた。
――弥生がいた場所だった。
「大丈夫?」
「熱くない?」
人集りの中からは、誰かを心配する声がひっきりなしに聞こえてくる。
その隙間から見えた誰かの顔は、酷く青ざめていた。
まるで絶望に染まりきってしまったように、空をただ一点、光のない瞳で見つめていた。
「弥生……!」
何があったのだろう。
そんな疑問が不安とともに浮かび上がった瞬間、彼女は急に教室を飛び出していってしまった。
「弥生!?」
「入夏さん!?」
弥生の奇行に教室内が騒然とする。
教科担任の先生は、その声でようやく異変に気づいたようだった。
「どうした?」
「入夏さんが急に教室を出ていってしまって……」
「入夏が?」
近くにいた生徒に話を聞き動揺を隠せずにいる中、先生はまず生徒たちを鎮めることに専念する。
「静かに! 先生が入夏を連れ戻してくるから、気にせずに作業を続けてくれ!」
駄目だ。
その三文字が頭の中で響くと、気づけば俺は早鐘を打つ心臓を抱えながら立ち上がっていた。
「先生! 俺が行きます!」
「入夏が? でも……」
「俺なら弥生を連れ戻してこられます! だから、行かせてください!」
先生が行っても何も変わらない。
もしかしたら俺が行ったとしても、何も変わらないかもしれない。
でも、行きたい。
弥生のそばにいたい。
それで少しでも弥生が安心してくれるなら――
……いや、違うか。
心から笑ってほしいから。
弥生の苦しむ姿を見続けるなんて、耐えられないから。
だから、弥生のそばにいたい。
そばで、笑ってほしい。
それが、俺の想いだから。
「……分かった。じゃあ、頼んだぞ」
「ありがとうございます」
俺は教室を飛び出す。
走る。
弥生を、迎えに行くために――。
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