36話 フライパンはこうやって煽るんだよ

 ――家庭科室の前まで戻ると、引き戸から少し離れたところで弥生が立ち止まる。

 そこは引き戸にある小窓から見てもちょうど死角になっていて、如何に彼女の不安が強いか分かった。


「大丈夫。俺はちゃんとそばにいるよ」


 再び同じ言葉を呟けば、弥生は何かに気づいたようにこちらに振り向き、優しく笑った。


「朝陽君がいてくれたら、なんでもできそうな気がしてきた」

「でも、教室に入る前に手を繋ぐのはやめような? 見られるのは流石にまずいし……」


 そう、俺たちの手はしっかりと繋がれている。

 弥生にねだられたのだ。


 授業中の今だって誰かに見られたらと思うとヒヤヒヤするのに。


「えぇー。私は別に見られてもいいんだよ?」


 なのに、弥生は悪戯っぽく笑みを浮かべてそう言った。


 気づいてくれてたんじゃなかったのかよ……!


「俺が無理なんだよ。なに言われるか分かったもんじゃない」

「繋いだままでいてくれたら、もっと安心できるんだけどなぁ」

「っ……それでもだ。ちゃんとそばにいるから、俺の手なしで頑張ってくれ」

「はーい」


 いじけたように唇を尖らせる弥生。


 この調子だと不安な気持ちなんてないんじゃないかと思うかもしれないが、この手は不安を誤魔化すようにぎゅっと握られている。

 このおちゃらけたようなテンションも、また不安を誤魔化したい気持ちの表れなんだろう。


 しかし、ようやくそれとも向き合うみたいだ。


「ぎゅ、ぎゅ、ぎゅーっ」


 三回。


 まるでおまじないのように繋いだ手を縦に振っては握ると、パッと手を離す。

 そうして笑み崩れた。


 その姿はとてもあざとそうに見えて、でも不思議と嘘のようには見えない。


 このあどけない幼さこそ本当の弥生なのかもしれないと、ふとそう思った。


「じゃあ、行ってきます」

「俺もついていくんだからな。勝手に一人で行かないでくれよ?」

「そうだったね。……ありがとう」


 顔を引き締めて、噛みしめるように言うと、弥生はゆっくりとその扉を開いた。


「弥生!」

「入夏さん!」


 まず最初に飛び込んできたのは、嬉しそうに彼女を呼ぶ声だった。

 男子たちは弥生の帰りを嬉しそうにしたものの、それを気にしないような素振りを見せる。

 対して女子たちは次々に立ち上がると、一目散に弥生の元へ駆け寄った。


 あっと言う間に大きな人集りができてしまった。


「どこ行ってたの?」「心配してたんだよー!」と弥生を心配する声に、彼女は苦笑を浮かべる。


「ご、ごめんね。急に飛び出していったりなんかして」

「なんかあったの……?」


 ここにいる全員の代表のような形で、弥生と同じ班の女子が不安そうに問いかける。

 すると、弥生も不安そうに俺を見上げた。


 大丈夫だよ。


 そんな言葉が聞こえそうなくらいに笑みを浮かべて、頷く。

 弥生は再びみんなの方へ向いて大きく息をつくと、やがて話し出した。


「……ごめんね。私、本当はあんまり料理得意じゃないんだ。でもみんなに嫌われるのが怖くて、嘘ついてて。家庭科室を飛び出していったりしたのも、みんなの顔を見るのが怖かったからなの。……本当に、ごめんね」


 弥生は一つ一つの言葉を噛みしめるように話す。


 最初の頃では想像もつかないような光景だった。

 正直に言えば、今日弥生と言葉を交わすまでこうなるとは思いもしなかった。


 ダメな自分を曝け出すことに怯え、何もかもを偽っていた弥生が、たった一つだけ、自分の出来ないことをみんなの前で打ち明けている。


 たったそれだけでも、彼女にとっては大きな成長だった。

 トラウマを克服するというのはそれだけ難しいことだと思うから。


 みんなの、反応は……?


 弥生が俯かせていた顔を恐る恐る上げると、問いかけた女子の興奮気味な声が響き渡った。


「なんで謝るの? めっちゃ可愛いじゃん!」

「か、可愛い……?」

「弥生ちゃん、いい? 女の子ってね、ちょっと不器用な方が可愛いんだよ」

「おいおい、それを女子のお前が言うかー?」


 近くにいた別の女子が戸惑う弥生に悪戯っぽく諭す。

 すると、遠巻きに見ていた男子がそれを茶化した。


「別にいいじゃんかー!」

「別にいいけどさー!」

「いやいいんかーい!」


 そんな夫婦漫才に教室が湧く。


 尚、弥生は依然として戸惑った様子だった。


「可愛いだってさ」


 弥生に声をかける。


「ほ、本当に……?」

「否定の声がないのが、何よりの証拠だろ?」


 そうだ。


 そもそもとして、完璧じゃなくて当たり前なんだ。


 そしてそれが、ある意味の完璧なんだ。


 そして、弥生はそれを武器にできる。


 みんな、ダメな弥生を好きでいてくれる。


「類は友を呼ぶ」の言葉通り、弥生の周りはとてもあったかくて、優しい人ばかりだった。


「……ありがとう」


 震えた声で呟く。


 その姿にこの上ない幸せを感じて、俺はだらなく笑み崩れた。


「ほら、早く自分の作業を再開しろ。 あんまり時間がないから巻きでやってもらうからな」


 待っていたかのように先生が声を上げる。

 実際、一区切りつくのを待っていたのだろう。


 途中で口を挟むなんて愚行をしないようにしてもらえて、感謝しかなかった。


「――弥生、いい? フライパンを煽るのは、こうやってやるんだよ」

「あっ、ずるい! 私も入夏さんに教えたい!」


 そうして、調理実習が再開する。


 クラスメイトに囲まれている弥生は今までで一番幸せそうな笑みを浮かべており、こっちまで幸せな気持ちになる。


 思わずその姿を眺めていると、ふと弥生が俺の視線に気づいた。


 こちらに振り向けば、あどけない笑みを見せてくれて……俺も、優しく笑い返すのだった。

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