50話 笑ってほしいから

「――弥生!」


 教室から真っ直ぐに走ってきていた俺は、痛む胸を押さえながら保健室の引き戸を開ける。

 そこには背もたれのないベンチに座っていた弥生がいて、彼女は俺に気づくと複雑そうな笑みを力なく浮かべた。


 そうして右足を引きずりながら俺のところまでやってきて、かがんでいる俺の背中を優しくさすってくれる。


「ダメでしょ、走ってきたら。もう無理はしないって言ったの、どこの誰?」

「それは……でも、弥生が……!」


「貴女が言えたことじゃないでしょ。安静にしてなさいって言ったじゃない」


 そう言って保健室の奥から姿を現したのは、腕を組みながらやれやれといった様子で笑みを浮かべている養護教諭の女先生だった。


「……ごめんなさい」

「先生! 弥生の足は……!?」

「ただの軽い捻挫よ。ただ午後からの試合に出られるかどうかは、そうね……難しいと言わざるを得ないわ」

「そんな……!」


 きっと弥生は、俺のために頑張ってくれていたのだ。

 だとしたら、俺が弥生に怪我を負わせたようなものじゃないか……!


「ただ、あいにくと彼女はそれでも試合に出たいって言ってる」

「えっ? どうして、弥生がそこまでして試合に出る必要は――!」

「はーいストップストップ。いろいろ話したいことがあるのは分かるけど、今お昼ご飯を食べ逃したら学校終わるまで食べられないわよ?」


 先生にそう言って止められ、俺たちはとりあえず昼食を取ることになった。


「――これ、弥生の」


 息を落ち着かせた俺は、持ってきた弥生の鞄を彼女に手渡す。

 何も持たずに教室を出ようとしたのだが、男友達に「もうお昼だから弁当も持って行けよ」と言われわざわざ持ってきたのだ。


「ありがとう、持ってきてくれて」

「あ、あぁ……」


 頭も冷静になってきた俺は弥生の素直な感謝にどう反応すればいいのか分からず、返答がぎこちなくなってしまう。


「私は自分の机で食べるから、貴方たちはそこの机を使ってちょうだい」

「ありがとうございます」


 保健室にある白い机を借りて、俺と弥生は葉月に持たされた弁当箱を開ける。

 そこには白いご飯の上にタレのかかった肉厚のとんかつが並んでいた。


「これは……カツ丼か」

「さすが葉月だね」

「そういえば、入夏さんには妹がいるんだっけ?」

「はい、このお弁当を作ってくれたのも妹なんです」

「いいなぁ、お弁当を作ってくれる人がいて。私の今日のお昼なんてコンビニで買ってきた菓子パンよ?」


 そんな他愛もない話で場の雰囲気を明るくしてくれる先生。

 そんな彼女の言葉に弥生も笑っている。

 弥生と二人きりじゃ何を話せばいいか分からなかったから、正直に言ってとてもありがたかった。


 カツ丼に関しては、言うまでもない。

 時間が経っているのにも関わらず衣がサクサクで、葉月の料理技術に脱帽だった。


 そうして昼食を取っている中、弥生はふと先生に尋ねる。


「先生にはそういうご飯を作ってくれるとか、逆に作ってあげる相手とかはいないんですか?」

「全然。だから、現にそうやって恋愛できてる貴女たちが羨ましいわ」


 先生の言葉に、一瞬だけ箸を持つ手が強張る。

 見れば彼女は俺たちの方を見てニヤニヤしていて、弥生は少しだけ頬を赤らめていた。


 その様子に先生が俺たちのことを言っていると察した俺は、慌てて訂正を入れる。


「俺たちは兄妹ですよ、そういう関係にはなれません」

「そう? 義兄妹の禁断の恋とか、惹かれたりしない?」

「俺は別に、恋に禁断とかを求めてるわけじゃないので」

「ふーん……そっか」


 先生の言葉を最後に、少しの間気まずい無言の時間が流れる。

 しかしすぐに昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴ると、弥生は食べ終わった弁当箱のふたを閉めながら立ち上がった。


「じゃあ私、そろそろ行くよ」

「何を言って……試合に出るのは難しいって、さっき先生に言われたばかりだろ?」

「それに関しては、ほら」


 弥生はそう言って、準備運動をするように右足首をぐるぐると回して見せる。

 どこかぎこちなさはあるものの、傍から見れば問題がないように見えた。


「まだ違和感はあるけど、ある程度なら動く。私がいないと試合にならないし、それに……朝陽君のために、頑張りたいから」

「だから、何度言えば――!」

「朝陽君」


 弥生の、俺の声を遮って名前を呼ぶ声に、思わず何も言えなくなってしまう。

 すると彼女はこちらに優しく微笑みながら言った。


「絶対勝つから。だから、見に来て」


 それだけ言って、弥生は再び俺の前から姿を消してしまった。


「……どうして、止めなかったんですか」


 俺は振り返りながら先生を恨めし気に見つめる。

 彼女は曲がりなりにもドクターなのだから、弥生の身を案じれば必ずストップをかけたはずだ。

 なのにも拘わらず弥生を行かせた意味が、俺には分からなかった。


 先生は席を立つと、俺に向かって歩を進めながらゆっくりと口を開く。


「入夏君。貴方は入夏さんのこと、好き?」

「な、何を言って……」

「彼女は貴方が好きだって、はっきり答えてくれたわ」

「弥生が……弥生にも、同じ質問をしたんですか?」

「えぇ、だから入夏君にも聞いてみようと思って」


 なんでそんなことを俺に、そして弥生に聞いたのだろう。

 もし彼女に聞いたのなら、どういう話の流れで聞くことになったのだろう。


 いろいろと疑問はあるが、とりあえず俺は先生の質問に答えることにした。


「……多分、好きなんだと思います」

「それでも、兄妹だから付き合えないって思ってる?」

「だって妹もいますし、俺たちで付き合ったら妹を仲間外れにしているようで……心が、痛くなるから」

「それでも、彼女は貴方と付き合いたいって本気で思ってるわ。無理やり試合に出ようとしているのも、その気持ちの表れだと思うの」

「えっ?」

「だって彼女、貴方が来る前に『どうすれば朝陽君の心の傷を治してあげられますか?』って泣きながら尋ねてきたんだもの」

「弥生が……?」

「責めないであげて頂戴。それだけ貴方の心の傷が、彼女にとっての心の傷なのよ」


 もちろん、弥生を責めるつもりはこれっぽっちもない。

 それよりも彼女が他人に泣きながら助けを求めてまで俺を心配してくれていたのかと思うと、言葉を失わずにはいられなかった。


「だから私は言ってあげたわ。『今、貴女が彼に一番してあげたいことを精一杯しなさい』って」

「でも、弥生は足を怪我して……」

「物理的な傷はいつか治るけど、精神的な傷はそうもいかないわ。そしてその精神的な傷を治すためなら、物理的な傷を犠牲にしてもいいと、私はそう思うの」

「それは……養護教諭の発言としてはどうなんですか?」

「心の傷を治すのも、立派な養護教諭の仕事よ。それに、恋する乙女は強いもの。あれくらいの怪我、どうってことないわ」


 どうしてこの人はそんな浮ついたことを平気で言えるのだろう。

 養護教諭として、ドクターとして見るなら安静にさせた方が絶対にいいはずなのに。


 でも、弥生は俺のために自分の身を削ってでも尽くそうとしてくれている。

 それは同情とか気の毒とか、そんな薄っぺらい感情じゃなくて、ただ俺が好きで、そんな俺に笑ってほしくて。


 ……結局、彼女も俺と同じなのだ。


 好きな人には、笑ってほしい。

 その手段を相手が望んでいるとか、望んでいないとか、そんなことは関係ない。


 ただ自分の強い気持ちが、少しでも相手に届いたらって。


 ならそのために、俺が彼女にしてあげられることは……。


「……先生」

「何?」

「俺、弥生の試合、見に行ってきます」

「そう。なら、鞄はここに置いて行っていいわよ。終わったら取りに来て」

「ありがとうございます」


 先生に頭を下げて、俺は保健室の扉に手をかける。


「次、決勝戦だから……彼女にしてあげたいことを、精一杯してあげなさい」

「……はい!」


 最後に先生の言葉を貰った俺は、大きく返事をして保健室を飛び出すのだった。

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