52話 兄妹か、恋人か

「――失礼します」

「えぇ。試合どうだった……って」


 保健室の奥から出てきた養護教諭の先生は俺たちのことを見るやいなや、またやれやれといった様子で苦笑を浮かべた。


「えと……今度は、左足もやっちゃいました」

「貴女も馬鹿ね、そこまでするなんて」

「そ、それはもう朝陽君におんなじことを言われたのでもういいですっ」

「分かったわよ、じゃあもうこれ以上は追求しない。貴女を怪我させた責任は、貴女を不可完全な状態で送り出した私にも責任があるから、ここから先は貴女の足が完治するまで精一杯面倒を見させてもらいます。それでいいわね?」


 先生は俺に視線を向け、改めて問いかけてくる。

 その表情には気力がなく、どこか申し訳なさそうにも見えた。


 きっと彼女も、心の中に負い目があったのだろう。

 もし弥生を送り出してしまえば、彼女はきっと傷ついて帰ってくる。

 そして、それを俺が望んでいるわけでもない。


 それでも俺たちのことを思って、俺たちを信じて、先生は苦渋の決断を下してくれた。

 そのおかげで、俺と弥生は互いの間にあったわだかまりを解消することができたのだ。


 そのことに今は感謝しつつ、俺は深く頷いた。


「はい、よろしくお願いします」



           ◆



 ――その後先生に軽く診てもらったものの、右足の状態はさっきよりも悪化しているらしい。

 左足の状態も芳しくなく、弥生はその日のうちに整形外科へ行って受診することになった。


 試合後の日程も閉会式とホームルームしかなかったため、俺と弥生はみんなよりも少し早めに学校を後にし、仕事を抜け出した父さんの車で病院へ向かう。


「……ね、ねぇ、朝陽君」

「どうした?」

「お姫様抱っこをしてくれるのはすごく嬉しいしありがたいんだけどさ、なんというか、その……恥ずかしくない?」

「じゃあ自分で歩くか?」

「い、痛いのはもうやだ。それに、もっと朝陽君にお姫様抱っこしてほしい」

「だったら大人しく抱っこされてろ」

「で、でも……うぅ……」


 移動時に俺にお姫様抱っこをされている弥生はどこか嬉しそうだったが、それ以上に恥ずかしそうだった。


 頬を赤く染めて、周りの反応を見てしまうのが恥ずかしくて必死に目を瞑って。

 その様子がとても可愛らしい。


 こんなにも彼女を素直な目で見られたのはいつぶりだろう。

 いや、そんな日などなかったかもしれない。


 彼女の好意、そして彼女への好意に気づき始めてから、ずっと目を背けていた。


 でも、もう出来ない。


 それほどまでに、彼女を好きになってしまったから。


 だから、もういいだろう。


 俺は彼女が診察を受けている中、家に帰ってからのことを静かに決意した。



           ◆



「――ほら、着いたぞ」

「ありがとう。ごめんね、手伝ってもらっちゃって」


 結局、弥生の右足首は中等度の捻挫、左足首は右足首ほどではないにしろ軽度の捻挫という診断が下されてしまい、彼女は車いす生活を余儀なくされた。

 階段を上がるのも一苦労で、一番楽な方法でも誰かが弥生を抱きかかえて上がり、もう一人の誰かが車いすを持って上がるという手間がかかる。


 今回は俺が弥生を抱え、父さんが車いすを運んでくれた。

 そうしてやっとのことで弥生は自分の部屋の前にたどり着けたのだ。


 ……そう、部屋の前までである。


「……んで、ここからどうするかだな」

「ご、ごめんなさい……」


 弥生の部屋は、俺が最初に見た惨状から何も変わっていなかった。

 床は物で埋め尽くされ、足場なんかあったものじゃない。

 それなのに車いすが入れるわけがなかった。


「もう日が暮れるし、今から片付けは無理だな。これは取り掛かっても一日中かかるぞ」


 俺がそう独り言をこぼしている間、弥生は何も言わない。

 いや、言えないといった方が正しいか。

 現に彼女は居たたまれなさそうにしながら、膝の上で両手をぎゅっと握ることしか出来ていなかった。


 その様子を見て、俺は苦笑を浮かべる。


「しょうがない。今日は俺のベッドで寝ろ」

「い、いいの……?」

「いいも何も、それしか選択肢がないだろ。弥生が怪我したのは俺の責任でもあるんだから、俺がちゃんと面倒見るよ」

「……ありがとう」


 というわけで、俺は弥生の乗った車いすを押して自室へと戻ってきた。

 とりあえず彼女を机の側に置いて、俺はベッドに勢いよく腰を下ろす。


「……疲れた」

「今日はありがとう」

「いや、それは俺のセリフだ」

「えっ?」


 目を丸くしている弥生を見据えるために、俺は座っている姿勢をある程度正す。

 ベッドについていた手を膝の上で絡めて、彼女を真っ直ぐ見つめた。


「正直、弥生が俺のためにあそこまでしてくれるとは思ってなかった。いや、思っていたのかもしれないけど、それで弥生が傷つく姿は見たくなかったんだ」

「それは、だって……私、朝陽君が好きだもん」

「……そうだな、気づいてたよ」

「だよね」


 弥生は少し照れ臭そうに笑み崩れる。


「それと同時に弥生は、俺が弥生や葉月に振り向きまいとしていたことを気づいてたんだろ?」

「……そうだね。ずっと気づいてた」

「さっき弥生の傷つく姿を見たくなかったって言ったのも表面だけで、きっと俺は心のどこかで弥生の好意を受け取るのが怖かったんだ」


 だから弥生の傷つく姿を見たくないというもっともらしい理由を盾に、俺は今までずっと彼女の好意から逃げていた。


「……ごめんなさい」

「謝らなくていいよ。俺だって、その気持ちについさっき気づいたんだ。それに……もう、謝る必要もない」

「どうして?」


「俺が、弥生の好意を受け取ろうと思ったからだよ」


 立ち上がる。

 弥生の前まで歩み寄ると、体勢を崩して彼女をそっと抱きしめた。


「っ……!」

「今までずっと避けてきてごめん。でも、もう避けない。俺も弥生のことが好きなんだ。だから……俺と付き合ってほしい」


 関係を進めれば、もう元には戻れないだろう。


 でも、それでも俺は前に進みたい。


 その代償が何だろうと、俺は受け入れよう。

 取り返しのつかないことが起きたとしても、そのすべての責任は俺がとろう。


 今なら、その覚悟と勇気がある。

 弥生に貰った覚悟と勇気で、俺は彼女との関係を一歩進めたい。


 だから……。


「……うん」


 弥生も、俺の背に腕を回す。

 そしてもう離さないと言わんばかりにぎゅっと抱き締めた。



           ◆



「――葉月には、内緒かな?」


 しばらく抱き合った後、ふと弥生が口を開く。


「そうだな、わざわざ言う必要もないし。言えばきっと傷つくだろうから」

「葉月の好意にも気づいてたの?」

「なんとなく、だけど。まぁあそこまで求められてたら、好意じゃない方がおかしいだろうな」

「葉月を傷つけないことが、私たちの恋が成功するための課題だね」

「それだけじゃないぞ」

「えっ?」


 俺は抱き着きを緩めて、目を丸くしている弥生をいやらし気に見つめた。


「片付け」

「うっ……」

「戻れるなら自分の部屋に戻ってほしいからな。明日は休みだから、一日使って部屋を片付けるぞ。いいな?」

「……はーい」


 弥生のやる気のない返事に、思わず笑みが漏れてしまう。

 彼女もそんな俺を見て笑い、俺たちはしばらく笑い合った。


 その時間が、今まで生きてきた中で一番幸せな時間だった。

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