4話 姉と妹

 宿泊の準備をした俺は朝比奈家に戻った後、朝比奈弥生にこれから自分が住む部屋を案内されていた。


「……広いな」


 部屋は現在俺が使っている部屋の約一・五倍の広さがあり、仮に二人で使おうと何ら問題はない。

 入ってすぐのところには壁一面のクローゼットに加え押入れもあり、収納面で言えば俺だけだともて余すくらいだ。


「でしょ? 隅にあるベッドと机はそのまま使ってもらって構わないってお母さんが言ってた。家から持ってくるのも大変だろうしって」

「そうさせてもらうよ。実際今まで布団で寝てたし、毎回押入れに出し入れする手間が省けるのは助かる」

「そう言ってもらえてよかった」


 一階ではもう既に皐月さんが夕食の準備を始めていたし、荷物を置いたら加勢に行こう。

 このまま朝比奈と二人きりも気まずいし。


「ねぇ、朝陽君」

「ん、どうした?」


 宿泊鞄をベッドの側に起き朝比奈へと振り向くと、すぐ近くで不満気に眉を顰めている彼女の姿が視界に入ってきた。

 思わぬ光景に気圧されて一歩後ずさってしまう。


「な、なんだ?」

「朝陽君さ、私のことを名前で呼ぶの避けてるよね?」

「…………」


 黙り込む。

 目を逸らす。

 いわゆる無言という名の肯定だった。


「どうして呼んでくれなかったの?」

「……朝比奈が俺のことを苗字で呼んだとき、皐月さんに指摘されてただろ? だからきっと俺が朝比奈のことを苗字で呼んだときも指摘されると思ったんだ」

「じゃあ名前で呼べばよかったじゃん」

「呼んでいいかどうか分からなかったからさ」


 本当は俺も名前で呼びたかったが、呼んでいいかどうかを聞くタイミングも失ってしまい、今まで呼ぶに呼べなかったのだ。

 そういった旨を朝比奈に説明すると、彼女は急に俺との距離を縮めてきた。


「そんなの、呼んでいいに決まってるじゃん! それどころか私、ずっと前から朝陽君に名前で呼んでほしかったんだよ?」

「そ、そうなのか?」

「そうだよ! さっきだっていつ名前で呼んでもらえるのかなってずっと待ってたのに、全然呼んでくれないんだもん!」


 初耳の事実が次から次へと流れ込み、脳が困惑に近い状態に陥ってしまう。

 もしかして、さっき意味ありげに俺の名前を言ったのも俺に名前で呼んでほしかったから……?


「家族になったんだから名前呼びは当然でしょ? ほら、早く呼んでみて」

「え、えぇ……?」


 いきなり名前呼びを催促されて困惑していると、ただでさえ近かった顔の距離を更にずいっと縮められる。

 俺を見つめるその瞳には「早く!」と書いてあるように見えた。


 ……弥生。

 言葉にするのは難しくないはずなのに、彼女が目の前にいるとどうしてもそれをはばかってしまう。

 だが、言わなければこの状態がずっと続くだろう。

 いつまでも彼女の美貌を目にできるほど、俺のメンタルは強くない。


 だから俺は痛いくらいに鼓動する心臓を必死に抑えて言った。


「……や、弥生」


 すると弥生は、彼女が俺の名前を呼べるようになったときよりもずっと明るい笑顔で。


「うんっ!」


 嬉しそうに頷くのだった。



         ◆



 ——弥生と別れて一階に下りてくると、台所で夕食の支度をしているのは皐月さんではなかった。


「……葉月?」


 エプロン姿で野菜を切っている葉月を発見したため、俺は思わず呟いてしまう。

 俺の呟きが聞こえたのか、葉月は相変わらずの暗い表情で俺の方へ振り返った。


「……どうかしましたか」


 視線を野菜へと戻し、包丁を動かしながら淡々と言葉を吐く葉月。

 彼女の方から話を切り出してくれたのは、少しかこの環境に慣れた証拠だろうか。


「晩飯の準備を手伝おうかと思ってさ」

「手伝うって……料理、出来るんですか?」

「親父が仕事で忙しかったから、基本的に家事は俺がやってたんだ。その範疇はんちゅうで少しだけな」

「……でしたら、この続きをお願いします。私は私で他にやることがありますので」

「あぁ、分かった」


 包丁を葉月に手渡され、俺は野菜のカットを引き継ぐ。

 一瞬黙り込んだときはどうなるかと思ったが、仕事を渡してくれてよかった。


「さっきここを覗いたときには皐月さんがいたけど、皐月さんがご飯を作るんじゃないんだな」

「お母さんは食材を準備してくれただけで、料理は私の仕事です」

「葉月もこの家で家事の当番なのか?」

「いえ、基本的に家事は分担制です。私はその中で主に料理当番なだけです」

「しっかりしてるなぁ。皐月さんから聞いたけど、まだ中学二年生なんだろ? 俺が中学のときは、家事も全部親父に任せきりだったぞ」


 最近になってようやく人並みに料理ができるようにはなってきたが、すでに切れていた野菜や調理の手際を見る限り、俺よりも葉月の方がずっと上手だ。

 そうならざるを得なかったとはいえ、この歳でこの技量は感心しかなかった。


 きっとたくさん練習したのだろう。


「そういえば呼び方『葉月』で良かったよな?」

「他にどんな呼び方があるんですか?」

「……ない」

「だったらそれしかないでしょう」


 軽くたしなめられてしまったが、逆に言えば名前呼びでいいということだ。

 今までの呼び方が間違いではないと分かり、そっと安堵する。


 確かに、他の呼び方はないもんな。


「じゃあ引き続き『葉月』って呼ばせてもらうことにするよ」

「……そうしてください」


 声の抑揚のなさや暗い表情はあまり変わらないものの、会話は意外にも長く続いている。

 敬語なのがちょっと気になるが、まぁそれは追々直してもらえばいいだろう。


 少し距離が遠く感じて寂しい気がしなくもないが、直せないんだったら直せないでもいいしな。

 そこは葉月の意見を尊重することにしよう。


「野菜、切れたぞ」

「ありがとうございます。後は私がやりますので、えっと……お兄さん、でいいですか?」


 そう尋ねてくる葉月の頰は、照れ臭さからか若干色付いている。

 そこで初めて、俺は葉月のことを可愛らしいと思えた。


「あぁ、それでいいよ」


 口元に弧を描きながら返すと、葉月の頰が少しだけの緩むのが見えた。


「……分かりました。では、後は私がやりますので、お兄さんは少しの間待っていてください」

「分かった。葉月の料理、楽しみにしてるな」

「き、期待されるのは困ります」

「ごめんごめん」


 一時はどうなるかと思ったが、何とかやっていけそうだな。


 葉月の困り顔を見ながら、そう思う俺なのだった。

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