12
「残念だが、よく分からねえんだ」
「あなたが明晰に何かを『分かった』ことなんてあるのか」。鳶羽は脳内でそう罵った。
亜縫狼金が消えて五日。気候は蒸し始め、日は強まる。もうじき、湿潤によって閉塞する季節が本格化する。陸上に居ながらにして、皮膚呼吸が溺れる、沈没の夏が。
鳶羽はまた、生徒指導室に来ていた。とは言っても今日、羽刈刑事は居ない。彼女はここに呼び出されたと言うより、日下に付き合ってやっている形である。
亜縫の失踪を受けた警察は、方針を転換する決定を下したようだ。藤有高校が、捜査の主要経路上に配置された。鑑識らしき集団を含む捜査員達が、校舎の至る所に現れ血眼になって、過去を垣間見ようとしている。旧校舎にまで、その手は及んだ。
鳶羽達も被害者の同校生から、真実を組み立てる断片にまで、密かに格上げされている。体感でしかないのだが、肌でそう察してしまう。
そうなると、疑問が生じる。
警察は、誰が最も犯人に近いと考えているのか。
二つの事件、二人の被害者。うち片方は、異常な死体まで見つかっている。この時点でそれらの事例の特殊性は、極めて高まってしまった。逆に言えば、実態に該当する仮説が少ないということであり、絞り込む手間は一般的な事件より、ずっと少ないと考えられる。手段からにせよ、足取りからにせよ、一つの端緒が大きな進展になる。通常は考慮するあれやこれやは、今回は考えずとも外れだと簡単に分かる。混乱の種となる要素は、
ところが警察には、「進展し追い詰めている」という気迫が無い。むしろ苛立ちを募らせているような、見る側を逆撫でするような、か細い焦燥を薫らせる。
気が気じゃない鳶羽は、知りたくなったのだ。被害者二人の行動は、どこまで判明しているのか。そこから何が予想され、どういった手段で裏付けようとしているのか。
要約すれば、「捜査はまともに進んでいるのか」を。
それを知る術は、彼女には無い。寧ろ彼女に
だから、どうにかしたかった。が、「どうにか」とは何か?それが分からなかった。
下校時を見計らい校門で待ち、生徒に声を掛けては遁走される、そんな不審人物を見たのはその時だ。言うまでもなく日下の事だが、彼は変わらず官憲とは別行動で、故に取り合ってもらえずに、通報寸前あと一歩、そこで途方に暮れていた。
鳶羽は、渡りに船だと思った。彼は警察内部と通じている。その上で当人は、それほど能力が高そうには見えない。しつこく聞けば、案外ポロリと口を滑らせてくれるかもしれない。相手を相当舐め切っている目算だったが、成功率は高いように思われた。
そういう打算もあり、ここまで行くと気の毒に見えてきたのもあり、彼女は自分から、彼との会談を申し出た。
そして今日、例によって学校にいられる昼休み時間に、こうして約束を取り付けたのだ。
このような
「残念だが、よく分からねえんだ」
肩透かし。
落胆大いに深し。
「分からないって言ったって、忽然と消えたわけでもないでしょう!」
「その筈なんだがな……。この街の監視カメラ、ハリボテが多くて思ったより誤魔化せちまう。しかも事件当日は、どっちも夜間、それも大雨の中だ。わざわざ外を見たり、出たりする人間が少ねえ。見たとしても、少し遠いともう何も分からねえ」
目撃者の不在。それは分かる。しかし、だったら——
「だったら、証拠を探せばいいじゃないですか!証言なんて曖昧なものじゃなくて!酷い死体だったんでしょう!?足から流れた血とか、落ちてなかったんですか!?二人が知らず残した痕跡を!」
「落ち着けえい。そんなもん、天下の治安機構が思い付かないと思うか?一介の女子高生が言い出すことを?」
その通りだ。彼らが探さない、探さなかった筈がないのだ。
「そうして蛇頭隼人の方は、何処に足を運んだか分かった」
それでも彼らの生前の動向は、誰にも——
——ちょっと待って?
「はや、蛇頭君の方は分かったんですか!?」
それは初耳である。本当にそうなら、大いなる前進ではないのか。
「そして、それこそが分からない」
しかし日下は、それが新たな混迷の始まりだと言う。
「あなたの言っていることこそ分からないです。順番に説明してくれませんか?」
「お前さんが急かすからだろう……」
ぼやきつつ、彼は続ける。
「一部の監視カメラの映像と、雨に流されなかった遺留物を辿ったことで、移動経路は良く分かった。蛇頭隼人は真夜中に、この近くのアパート——彼の現住所だな——を後にする。夜中に学校に侵入し、その後に主要な通りへと出て、そこを南下し、その途上で死に至った」
………………。
分からない。確かに、分からない。
「どういうことですか?どうして学校に?」
「それを言うなら、『どうして暗くて大雨なんて踏んだり蹴ったりな天候下で、わざわざ外出なんてしたがるのか』、まずそっちを聞くべきだったな。答えは、『学校に忍び込むから、人目につかない時が良い』、だ」
「しかも、どうして南に?」
「鑑識課の見解では、その時点で外傷を負っていたらしい」
「その状態で、病院でも自宅でもなく、どうして?」
「だから、それに答えが出てねえから、こんな渋い顔してんだよ」
本当に、分からない。
「『分からない』と言えば、まだあるぞ」
台詞だけなら楽しげだが、言っている日下は辟易した様子だ。
「ある定点カメラが、フェンスを潜って学校に侵入する、蛇頭隼人を映している。どうやらトタン塀の一部が、捲れるようになっていたのが、見逃されていたらしい」
定番と言うか王道と言うか、平和ボケから来る杜撰さの下では、割合とありがちな事例なのかもしれない。
「だがこのカメラ映像、一つだけ問題があった」
「何ですか?解像度が低かったとか、データが破損していたとか?」
「出て来ないんだ」
「え?」
「入ったはいいが、いつまで経っても彼は出て来なかった。そのうちに遺体発見時刻だ」
学校から、出ていない?
「他に、他に穴があったとか」
「もう一度聞くが、探してないと思うか?」
そんなものは無かった。
「校門とかなら、乗り越えられるんじゃ……」
「その付近の外壁まで調べたが、最近付いた蛇頭隼人の指紋は、未だ見つかっていない。冷静に考えれば、それが出来るなら最初からそうしろという話だ。事実、亜縫の方はそうしていたらしい。門扉の上から、掴むような指紋が見つかった。亜縫のもので、真新しい。二人仲良く夜中の登校、ってわけだ」
そしてそれは、当初の印象よりも、数段は異常な事態だった。
「同じカメラの、保持されていた半年分の映像が精査された」
隼人の侵入は、初犯ではなかった。
「何度も何度も、雨の日の夜は欠かさず通い詰めていた。そして毎回、出て来ない」
で、あるのに、いつもいつも次の日の朝には、何食わぬ顔で登校していた。
最後の日、彼はいつの間にか、離れた座標で倒れ伏していた。神隠しのような、過程の省略。
彼は一体、どこに
雨の下、夜の学校は、異なる何処かと繋がってしまう、と言うのか?
『何処か』とは?怪物の胃袋か?
それがどんな姿かと言えば——
「旧校舎……」
「……“人喰い”か?」
棄てられた聖域の周囲を渦巻く、おどろおどろしい噂を思い出す。
——あそこに、何かいる。
そうして鳶羽は、煮詰まってしまった。
「前から思ってたんだが」
緊張感の欠片も無い日下の声で、細めていた息が
「蛇頭隼人の事、前から気に掛けてただろ、お前さん」
その弛緩につけこんで、
「…な、んでそう思うんですぅ?」
脈拍も声も、上擦ったのが分かる。
「わかりやすい奴だな」
「いや……えぇ、どうして?」
「流石に入れ込み過ぎだ。単に好奇心や使命感だけで、そこまで我を忘れるのは、無いわけではないが少し珍しい。それに」
「そ、それに?」
「何度か被害者を『隼人』って、呼び捨てにしそうになってただろ」
「疎遠な幼馴染との空気感に思えなくてな」。だから彼女の防備が剝がれる、その隙を狙い澄まし、鎌かけも兼ねて揺さぶってみたのだろう。鳶羽はその試行に、面白い程引っかかった。
「教えてくれ。お前さんにとって、蛇頭隼人とはどんな人物だ?」
蛇頭隼人は、
隼人は——
「大切な、友達です」
ぐちゃぐちゃな情感の坩堝から、苦心しながらそれだけを掬い上げる。菜箸で豆でも抓むように。
「お互いに、家族のように思っていました」
「それなら何故、最初からそう言わなかった?」
「私が今更彼の
少女は自らの下唇を噛む。
知らない仲ではなかった。隼人と鳶羽は、戦友のようなものだった。
辛い今生を分かち合った、同胞。
彼の母は、彼を生んで亡くなった。以来、父一人子一人で生活している。幼少のみぎりに彼と出会った鳶羽は、その危なっかしさに目を離せず、張り付くように世話を焼いていたら、自然と仲良しになってしまった。生まれた時から、持っているものが一つ少ない隼人。それでも純真で全力な彼を見て、鳶羽は何度も元気を貰った。何かと自信を喪失しがちな彼女が、今日まで平気なフリをしてきた。それが可能だったのは、彼が奮い立っていたから。
彼ら二人は背を叩き合いながら、寄り添って育ってきたとも言える。幼稚園時代のままごとを思い出す。鳶羽はいつだって、母親役だった。
最近はあまり使っていないが、連絡先だってお互いに知っていたのだ。
だのに、
彼が良くない付き合いをしている時、止められなかったこと。彼女はずっと、後悔し続けている。思春期の照れ臭さだとか、彼から友達を奪いたくなかっただとか、彼の自由に口を出し過ぎないようにだとか、隼人の為だったとか、言い訳や理由付けは幾らでも思いつく。だけど本当は、臆病風に吹かれていただけ。神羅達と敵対し、隼人に「余計なお世話」と拒絶される。そうなったら耐えられないから、味方と居場所を失うから、一歩も踏み出せなかっただけだ。あってはならない及び腰だった。
元は文学少年だった彼が、あんな集団の一員に、自然となれるわけがない。無理をしていたのか、さもなくば裏で虐められていたのか。彼の父親が仕事で県外に遠出しがちで、情報を得られる近親が居なかったのだから、彼女が強く糺すべきだった。
失格だ。
あと少しだけ彼女が勇敢だったら、隼人は今も生きていたかもしれない。
やり切れない想いが彼女に、強く恥の念を浮かばせる。
次こそは、
今度こそは彼の為に、と。
鳶羽にとって、隼人は肉親とほぼ変わらない。「いつもの」景色に、当たり前に含まれている一人。いなくなれば、彼女の世界に穴が開く。
「隼人がそこに居るっていうのは、何も劇的な幸福ではないんです。ただ、見せかけだけの『変わらぬ日々』、そういう安寧は、隼人が居てこそなんです」
彼女は未だ宙にいる。
下に引かれど、
足が着かない。
ゆっくり落ちてる
その途中。
「正義の心とか、復讐とかではなくて、ただ、埋め合わせが欲しいだけかもしれません」
居る筈の人間が居ない。その理由だけでも知る事ができれば、欠落を腑に落とせるかもしれない。
「『誰かが遭った怪談』でも、『触れない物語』でもなくて、私が、『この“私”が体験した事件』にしたいんです」
何故死ななければならなかったのか。
或いは、死んではいけなかったのか。
「虚しい、と言うか、こわい、と言うか………、悔しい、そう、悔しいんです。これでなあなあで終わってしまったら、私、悔しいんですよ」
鳶羽は、自らの動機をそう定義する。結局、死んだ隼人の為ではない。彼を葬るのは、生きた彼女の救いになる。
「強いんだな、君は」
涼やかな風が、通った気がした。
柔い声と共に、鳶羽は確かに見た。窓からの照光で白く塗られ、机も椅子も棚もどこかへ爆ぜ飛び、その刹那の天変を背にした日下が、静かに動かず笑いかけたのを。
頭痛を堪えるように、遠く懐かしむように、狭められた目蓋。
彼は、鳶羽を通して何かを見ている。
怪しんで、いるようには見えない。
これは、“羨望”のように見える。
日下創は、椅鳶羽の何に、眩しさを見たのか?
「誰かさんとは大違いだ」
肩を竦めて茶化した事で、
荘厳なる幻想は雲散霧消。
結局それについて、聞きそびれてしまった。
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