15
「君は……、どうしてまた、そんな事に……」
僕を見た彼は、少しだけ訝しげだった。きっと、酷い顔をしているのだろう。
「
「分析するなよ。そんなことしても、なんにもならない」
「そうか?私はそうは思わない。人の顔貌というものは、精神によって大きく変わる。同じ肉を持てど、経験が差を生み出す。そして君の顔は、見たことのない形をしているな」
「だったら、だったら何だってんだよ!」
「どうしてそうなったのか。その原因を知覚し研究できていない。めちゃくちゃ惜しいことだと思わないか?」
うんざりする。
コイツの観察対象になんて、なってやるものか。
「お前は僕の前じゃ無力だ。忘れたのか?」
「ふむ、確かに私の“
「じゃあ言うぞ。どけ。お前は僕に勝てない」
「贈り物同士が相殺し合うのは、その通りだが」
?
消えた。
それは間違い。僕が見ている先が変わった。
視線が90度上向きになり、背の全面が壁に、それも間違い、廊下に正面衝突——この場合は背面衝突?——した。
「が」
チカチカと汚れたプリズムが奔り、顎の痛みに遅れて気付く。
「基本を忘れてはいけない。純粋な力比べは、まだやっていないだろう?」
殴られた。思いっきり、突き上げられた。
体格の良い男だと感じてはいた。融通の利かない部分を、身体能力で補助する戦法かと思っていたが、少し読み違えていた。贈り物の方がオマケで、本職は
片膝を突き、ゆっくりと立つ。彼は目の前で、退屈そうに復帰を待っている。その悠長さが命取り、そう言ってやりたいが、口がうまく動かない。
やられた。まだ足に来ている。さっきの初手が、そのまま決め手だ。僕は満足に戦えない。逃げる事も無理だろう。
左手からシャープペンシルの芯入れケースを放る。“YJB”。虹彩が右寄りに。右拳を死角となる反対側から繰り出して左掌で掴み止められる。
「小細工だ。見なくても気配で分かる動き。素人の打擲ほどに、か弱きものはない」
加えられる握力が次第に強まっていく。このまま僕の右手を使用不能にするつもりか。離れようと腹を蹴り付けるも、顔色すら変わらず微動だにしない。万力のように固定し、手放す気配がない。
「少し、大人しくなってもらうぞ。我が太陽からは、生かして連れて来いと命令されている」
忠実な召使いは、言われた通りに僕を生け捕る。その為には手足の一・二本、失われても良いという判断だ。達磨にしてでも、主に供する腹積もりだ。
………
………………………………
……………………………………………………
奇妙だ。
何がって、自分の心持が。
僕はもっと、自分の命に執着していると思っていた。幸せに、快楽に、未来に。そういったものを没収されて、平気でいられるわけがない。
そう思っていたのに。
僕は、想像していたよりずっと、平熱だった。
実際の所、さっきまでも焦ってはいなかった。確かに動揺はしていたが、それで急いてはいなかった。「負けたら悲しむことになる」「苦しむことになる」「必ず後悔することになる」、そう予想して対策したが、いざそうなってみれば、全くの見当違い。
そりゃあ痛いさ。辛いさ。厭さ。でも、そんなのその内に忘れる。
今の僕は、魂に傷を刻まれて、欠け落ちた破片を無くしてしまった。
そちらの方は、無かったことにならない。覆せない事実なんだ。
そうなってしまったから、そうだ、だからだろう。僕は全然揺れなかった。暴力も無力も、僕を傷つけなかった。
八方塞がりになる以前から、空が閉じたのを理解してしまった。
道が絶たれているのを見ても、今や大事になり得ないんだ。
「随分大人しい。まあ私としては有難いが」
右腕が捻り上げられ、どう動こうとも抜け出せなくなる。へし折れる覚悟があれば別だが。
「しかし、君が私をその教室から遠ざけようとする、その理由には興味がある」
彼にはお見通しだったようだ。僕がそこから逃げたかったこと。
「“カリギュラ効果”だよ。君がそこから目を引き剝がそうとするほど、君の視線はそこへの引力に逆らえなくなる」
ああそうとも、実感している。
さっきから僕に何も効かないのは、たぶん僕が上の空だから。頭から追い出そうとして、逆に頭をそれが占める。忘れたいことこそ、離れてくれないものなのだ。
「記憶が正しければ、そこは開かずの扉だった筈だが……。何があるのか?別に教えてくれなくたっていい。すぐに分かる。百聞一見だ」
強制的に戻される。一度逃避した行き止まりへと。
僕が打ちのめされた、変えられぬ現実へと。
いや、
待てよ?
もしかして。
「もしかして」、その言葉が胸の内で泡立つ。
そうだ、試行回数が少ない。さっきのは例外だったかもしれない。言い切れるものじゃない。
そう、断定にはまだ早かった。あいつが少しだけおかしかったのかも。害意を向けられ、反射的な防衛行動が起こっただけかも。そうに違いない。そうでなければならない。だったら僕は、試さなきゃ。
あれが“本来”でないと、証明しなきゃ。
それに、あれが“間違い”だったとしても、この方法なら、僕だって——
彼は僕を盾にするように押し進め、その教室内へ足を進める。僕の肩越しに中を見て、
当然だが彼女を見つける。
「あれは……?」
より詳らかに観察しようと、僕を間に挟んだまま、摺り足の如き歩幅で漸進。あいつの死体は無い。彼女が残さず、平らげてしまったからだ。
「角………?
少なからぬ惑いが感じ取れる。僕の右腕にも余計な力が加わった。
「植物?動物か……?人間、なのか?」
天使とは、本来人の形をしていないらしい。ならば彼女も、天の御使いなのだろうか。
「興味深いな。初めて見る顔をしている。誰もが浮かべなかった
彼女はこの世のものじゃないのだから、それは当然と言えるだろう。俗世の人間風情では、不純物が多過ぎて、あそこまで透き通っていられないだろう。
「ここはどうやって、封印されていたんだ……?一体何が…………」
彼が不用意に歩み寄り過ぎてしまったのは、この世界で「起きている」筈がないからか、単に見惚れていただけか。
言える事は、彼女の射程内だ。
「それさ」
「なんだ」
後ろに回された右手の先で、こっそり彼を指し示す。
「見て」
“
彼は他より少し目立った。
「何を」ペロン。
腕が解き放たれた。僕のすぐ横を通った根っ子が、粘性の高い液体を分泌し、それで彼を絡め捕り、お腹の中へと引き摺り込んだ。
器用にも、僕には一切触れないで。
「………………………」
そうなのか?
本当に、そうなのか。
あれは、間違っていなかったのか。
“間違い”ではなかったのか。
特別なんて、やっぱり無かった。
そうか、
君は、
僕の事を、
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