16
「急いでください!こっちですってば!」
空高くからの雫に冷やされ、布越しでも素肌でも、隙間を許さずにずぶ濡れにされ、鳶羽の苛立ちはしかし上昇していく。目の前の愚鈍な青年のせいだ。白い靴下に跳ねる汚水のせいだ。
体熱と雨音が相俟って、フライパンの上で加熱され、パチパチ跳ねる油の気分だ。
「いや、中に入らないのかよ。って言うか、まず何を見つけたって言うんだ!」
「見つけたんじゃありません!思いついただけです!それを確かめに行くんでしょ!」
「『でしょ』って言われてもな……!何が何だか」
「だから!行くのは中じゃあなくて外!外周から校舎裏まで行くんです!」
頭に
そうなってしまったら、隼人も浮かばれない。誰も仇を取れなくなる。
だから、彼女は走った。一つのアイディアに身を委ね、赴くままにひた走った。失敗、勘違い、雨の中を
裏手に回った二人の事を、戦没者を宿した石が出迎える。慰霊碑だ。これこそが鳶羽の“発見”。
「この慰霊碑、焦げ目みたいなものが付いてますよね!?」
「ああ、そうだな!」
「空襲の犠牲者を弔うものなのに、なんでその空襲の傷跡があるんですか!?」
「もともとここに石製の何かが建ってて、それを利用して作られたからじゃないか!?原爆ドーム的な!」
「だったら、ここには空襲の前から、ずっと何かが在ったことになります!」
彼女は怯まず前へ。そして石造りのそれに触れる。手を添わせ、
「お、おいおい!」
日下の困惑は重々承知。そしてそれこそが彼らの盾だ。彼らの蓋だ。
碑石の表面を拭き清めるように、素手でぐるりと触れながら、事細かに検分していく。
「やっぱり!これ、何か変です!」
彼女が何に違和を感じているのか、ちっとも推察できない青年は、兎にも角にも寄せてみるしかない。
「ほら、この線です!」
彼女が言っているのは、石の繋ぎ目のことらしかった。四角く加工された石材が、組み上げられている証。
「……これが!?こういう構造になってるってだけだろ!?」
「でも、大きさが中途半端だと思いませんか!?」
言われた日下は、脳内に図面を引いてみる。複数の直方体を、見た通りに積み上げていくが、
「………いや、ああ~!?確かに……?」
「ちょっと、しっかりしてください、探偵さん!」
「俺は助手だ!だがお前さんが言いたいことは、なんとなく分かった!」
一つ、碑石の真後ろに位置する石。大人一人分よりは巨大だが、高さも幅も端に届かず、そのせいで周りの石材の形が、六面体を外れ
それではまるで、先に慰霊碑が完成し、そこから切り出したかのような。
あべこべだ。
優先されているのは、目的となっているのは、
この岩の方だ。
鳶羽はその部分を重点的に調べる。窪み。年月で自然に凹んだように見えるそれ。ちょうど手を掛けて引っ張るような、扉の取手のようなそれ。試しにと四指を入れ力を籠めるが、どうも動く気配が無い。
「いやいやそんな初歩的な隠し通路なんて無いだろ!」
「じゃあ日下さん、触ってみてくださいよ!」
「え、やだよ罰当たりな!」
「それですよ!」
鳶羽は力説する。確実に本腰を入れさせる為に。
「慰霊碑に触るのは、
「そうは言っても、証拠が落ちているかもしれないなら、調べざるを得ないだろ!それでこれを妙だと思ったとして、うんともすんとも言わねえじゃないか!思い違いだ!」
「いいえ!違います!私がさっき『思いついた』って言ったのは、ここから先です!」
雨が酷く激しくなっていく。声を張り上げていないと、会話すらままならない。けれども、今だけは好都合。震えているのは寒さの為で、腹から音を響かせているから。緊迫から、恐怖からではない。他でもない自分自身に、そう言い聞かせて偽れる。
「化学準備室!」
「なんて!?」
「あそこのコーヒーメーカーがヒントになったんです!」
かつて神螺を追って、そこに隠してあった機器。
「コーヒー……?ああ、サイフォンか!」
その時、鳶羽は気付けなかった。
「それで、今のこの状況に何の関係が!?」
「このホース!何だか短いとは思いませんか!?消火用なら、火元まで伸びなきゃいけないのに!」
「複数あるうちの一つだからだろ!」
「だとしても、こんなに短い物、あるだけ無意味ですよ!」
半分叫びながら、彼女はそれを消火栓に接続する。一番左、慰霊碑に最も近いものに。
「何してる!」
「ここの地面が掘り返されてたのって、もしかして!」
バルブを回転させ、起動装置を始動、ノズルを地面に向け、先端を反時計回りに——
高圧水流が噴射される。
それが土を削り、掘ったような痕を残す。
その状態を続けていると、一分もしないうちに止まってしまった。
「少な!今は使われてないから仕方ないのか!?」
栓本体を呆れながら叩く探偵助手を相手にせず、鳶羽はもう一度窪みに指を入れ、満身の力で引っ張った。
思ったより呆気なく、扉が開いた。
勢い余って後ろ倒しに、転びそうになったくらいである。
「何してん、うぇ!?」
一度横目を向けた日下が、驚嘆と共に振り向いた。
ポンプと水路を仕込んだ碑石。空の容器をセットし、水を入れれば
「オォイイイ!?何だこれ!?」
「見ての通り、水の質量を鍵代わりに、施錠してるんですよ!」
「そんな無茶苦茶な!注水時はどうしてたってんだ!?」
「たぶんサイフォンの法則です!」
管で繋がれた二つの容器は、重力によって水面が押され、水位が水平に一致する。その為に、「もう一つの容器を使うんです!」
「もう一つって……ああ!屋上のタンクか!」
雨水を貯める水タンクと、それから伸びる水道管。その先はこれらのポールのうち、また別の一つと繋がっているのだろう。
「このホース!こうやって!」ノズルの根本部分を回し開け、分離。「それからこっちに!」空いていた消火栓の口に、ぴったりと装着することができた。長さも丁度、弛まぬくらい。「これでタンクが水で一杯になれば!」
一つの管で繋がれた、二つの容器。
「汲み取りを停止させ、両出口を解放することで、下の容れ物、つまりはこの偽石材に、満杯になるまで流れ込むって寸法か!」
そうなったら栓を閉めて、固定完了。元の通り、不動の石碑が腰掛ける。
「で、そうまでして隠したかった物が……」
「この仕掛けが、戦前からあったとするなら」
二人は慰霊碑を、くり抜かれた空間を振り返る。
仔細に観察するまでもない。
下に、浮き彫られた異変がある。
穴だ。
穴がぽっかり、開いている。
人一人が通れそうな暗い
まさに、人喰いの化け物の大口。
「これが………、“厄捨穴”か…?」
唖然とその名を口にする日下と、
「誰かが通ったらしい旧校舎と、夜の学校に入って出て来ない隼人。ここが、目的地でしょうか………」
必死に深奥を見抜こうと身を乗り出す鳶羽。
隼人は、この下に——
——可哀想に。
——嗚呼、かわいそうな隼人。
こんなところに、一人閉じ込められて。
彼の無念が、内で
受け取った彼女の決意は、目の前のそれよりも深まっていく。
この悲痛を、早く終わらせて——
不意に、
まったく別の音が聞こえた、そんな気がした。
彼女の精神が、雨足を痛がるくらいに、尖っていく。
あらゆる運動が停止したように、天候と探偵助手が掻き鳴らすどよめきが、抜け落ちていく。
ついに彼女はその身を屈め、
右耳を下方へ、
もっと下へ。
一帯を占領する湿気が、その細かい振幅を生温かい風に変え、不快感を上積んでしまう。
なんの美化も、殺菌もされていない、
まさに死臭だ。腐敗の薫りだ。
腐敗とは、実のところ死ではない。小さな生命達による、活発な蠢きの証左である。
ブツブツ、
ツブツブ、
一つの総体という身繕いが剥がれて、多様不規則な集合を
人の中の群がりが、本質が花開く時。
それと同じくらい、ここからは息吹が溢れて来る。
この穴は、
——こいつは、
生きている。
つぶつぶつぶ。
生理的反応に弾かれるようにして、鳶羽はその顔を遠ざけた。
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