17

「あら?逃げないの?あたしとしては、楽でいいんだけど……」



 この女が迷うところを、初めて見たように思う。

 だとしても、溜飲は一滴も下がってくれないが。

 敵を出し抜けば、倒せば、征すれば、

 それで達成感を得られるなら、僕は彼らと戦わなかっただろう。

 勝つのはどちらか、誰の目にも明らかだからだ。

 それじゃあ、僕は何をしているのかって?

 これは戦いじゃあない。証明だ。僕の陳腐さの証明であり、僕の暗澹の追認だ。


 ああ、外れてくれればいいのに。


「ねえ、出てきたってことは、あたしに流されてくれるってことでいい?」

「………黙って付いて来いよ。この前みたいに」

「……機嫌、悪い?」

 彼女は動こうとしない。警戒しているのか?けれど追撃を止める、それだけはないだろう。彼女が主流に抗うなんて、生き方の根本を否定するのと同義。

 別の誰かになるのと同じだ。

 だから、来る。

 僕が逃げれば、必ず。

「………そうだ、聞いておくよ。お前の贈り物は、なんて名付けられたんだ?」

「ん~………教える意味、ある?」

「どうせお前は死ぬ。だったら今のうちしかない」

 本当は、死んで欲しくない。彼女の生死自体はどうでもいいが、僕が救われない裏付けになってしまうから。


 勝利宣言を打ち上げられたにも拘らず、彼女はやる気の見られない半目で、昂ることなく「まあいいか」と一言で済ませ、


流体鰐フォンデュ・オ・フロマージュ


 他に話すこともないので、僕が踵を返して走り出し、それでそのまま開戦となった。

「あれ?やっぱり逃げるのかしら」

 全くの手順再現。

 一定間隔で、ゆらゆらと浮追ふついしてくる。加速しても減速しても、それが開いたり縮んだりしない。その性質について考える時、この地球の法則に縛られ過ぎた。少しだけ自由な見地を持てば、原因を想像することは出来る。

「前会った時、途中で僕を逃したのは何故か?」

「そうだったっけ?忘れたわ」

「その方が、楽だったからだ」

 流れに従うと言うのなら、僕以外の「流れ」があった事になる。あの時に動いていた物は一つ、必然、それが「流れ」を生み出している。

 鉛筆と共に彼女は去った。それが、ルールのヒントになる。

 紐をくっつけて、凧のように付いて来る?それでは追跡対象が、変更される説明がつかない。動く物ならなんでも追尾する?だったら僕の投げた消しゴムは?

 そうやって一つずつ切り落としていけば、答えが自分から頭角を突き出す。

 

「例えばイルカは、目前の水を掻き分けて、開いた空間に生じる流れ込む力に乗って、前進するらしい」

「………どうしたの?急に」

 焦りは見られないが、応答ペースがズレていく。全くの優位でないことを、彼女も察し始めていた。

「例えばレースの際、前を行く車のすぐ後ろに、空気が押しのけられ気圧が下がったスペースが生まれる。追う側はそれを利用し加速、抜き去ることもできる」

 スリップストリーム。

 地上に居る僕らは、常に満たされた物の中。


「君は、流体になれる。それも気体か液体か、任意で選べる」

 もしかしたら、彼女の周囲までもが効果範囲。


 彼女が固形物なら、自前の速力が要る。だが流れる空気そのものならば、自然とその空間に吸引され、力無く導かれることが可能。

 そして僕に干渉する時は、液体に変じればいいだけ。最初に会ったあの時、僕の耳の中を掻き回した、あの厭悪えんお。あれは、彼女が変化し、その一部で攻撃したからだ。

 

「そうなのかも………。それで、どうするの?どうすれば」

——あなたはあたしを倒せるの?


「僕にはできない」

 階段を駆け下りる。一階。

「逃げることくらいだ」

 彼女はそこにいる。

「お前を連れて」

 すぐ横の男子トイレに入る。

「行き止まりに?」

 問いには答えず、大きめの穴が開いた、汲み取り式便器の中に、二秒程の逡巡の後で飛び降りる。

「え」

 今度こそ、彼女は驚いたようだった。自分がくっ付いている相手が、汚穢おわい溜まりへと突っ込んだのだ。そういう反応にもなろう。

「わたしを汚すの?でも、あなたが先に大変なことに…」

 僕の足が着いた先は、

「え??」

 二度目。彼女の珍しい表情。

 そりゃあ意味が分からないだろう。その場所が教室だったのだから。

 入ってきた口を確かめようと上を向いて、そこに何も無く疑問符を追加する。

 僕が初めてここに来た時と、生き写しの反応で、こんな時だが少し笑ってしまった。

 そうだとも。

 そういう顔にもなるだろうとも。

「ここは……あ…あわ…わ…か…」

 思ったより、不良を訴えるのが早かった。打撃では効かないものの、元となるのは単なる人間、単なる物理現象だ。

「か……は………」

 体温を感じさせない肌が、赤黒く澱む。白眼に緋が走り、唇が紫色に変色。震えは大きくなっていき、呼吸は反比例。

 予測通り、混ざっている。

 此処は、狩り場だ。人を食事にできると言っても、それだけで食い繋ぐとは考えづらい。だったら本来の餌が、何か別に有る筈。そこまで考えて、僕はこの教室の「甘さ」を思い出した。鼻だけでなく、舌にまで擦り付けられる、濃密な甘味。

 体内から取り出された、何らかの粘液で獲物を摂った、その生態に鑑みると。


「ここは、満たされている」


 流体なのか粒子なのか。生物を絡め捕る物質が、充溢している。迷い込んだ者達を、それで食しているんだ。大きい物も、小さき物も。もしかしたら、微細な物も。

「お前は今、液体か?気体か?………どっちでもいいか。餌食を溶かし殺す為の毒と、お前とがミックスされているのは変わらない」

 それが嫌なら、道は一つ。

「あ、あ、あ……」

 細く苦しげな息を吐きながら、床に倒れ込む彼女。解除した。ただの女の子になった。次の実験を始められる。

「ほら見て」

 死に体に追い打ち、と言っても「見せる」だけだ。


 “道化の見る夢ユエ・チェン・ピィン”。


 そしてあっさり食べられた。

 期待を抱く暇すら無いのは、無慈悲なのか優しさなのか。




 まだだ。

 帰納法を適用するには、まだサンプルが少数じゃないか。

 もっと連れて来れば、

 もっと試せば、

——誰で?

 今、他に誰がいると言うのだ?

 この眠った世界で、他に誰が。

 

 

 足が柱に当たったことで、廊下を歩いていたことに気付く。あてもないのに、動いていた。これから、どうしようか。

 月明かりが注がれる。足音以外に動くもの無し。この行き詰った場所は、何かの目的の為なのか。それとも悪い冗談か。原因は彼か、それとも彼女か。

 それが始まった、その前と後で、遍く劇変した、そう思っていた。

 実のところ、そうでもない。

 僕の立場は、

 翻弄と力不足の果てに、受容を選ぶしかないという立ち位置は、

 どうにも、どこに行っても、変わらないみたいだ。

 

「僕は、ぼくは、ボクハ……」

 

 もうどうにも、

 待て、

 もう一人、

 そうだ、

 もう一人だけ居たじゃないか。

 フルコースは終わっていない。

 最後のチャンスが、メインがある。

 あと一回だけ、試せる。

 もしそこで、これまでとは違う結果が出れば、

 僕でも、

 僕だって——


 急いで彼を探そうとし、

 頭を振り返し、

 後ろ側へ一踏いっとう、を損ねて転んでしまう。


「?」


 感触が、変だった。床が突然柔らかくなったみたいな。足が粘土に嵌ったような。

 足先を視認し、

「ぁあ」

 分かった。

 床が変になったのではない。

「あああ」

 足の長さが短くなって、いつもの感覚で踏もうとしたから、

「ああ、あ」

 段差への距離を見誤ったみたいに、宙に体重を載せて体勢を崩した。

 

 右脚の踝から下が、無くなっていただけだ。


「ああああああ!??」

 

 痛みは、無い。

「あ!あああ!あ!?あ!あ!?」

 だから、こわい。

 この後、どんな拷苦が待つのか。

 何よりも僕の想像力が、僕自身への脅嚇きょうかくとなる。

 何が?

 何が、何処から?

 何が、何処から、何時いつから?

 何が何処から何時から如何どうして……



「カケコー、カケコー、カッッッ、ケコー……」

 


 高い革靴の踵を打って、わざとらしく鳴らしながら、

 その男はやって来た。


「そろそろが過ぎるんじゃないか?」

 

 彼だ。

 最後の一人。

 最初の一人。

 この世界を、この姿に変えた男。

 

「お仕置きの時間だ」



 「太陽」が、僕を収穫しに来た。

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