7

「あたし、流されるのが好き。その方が楽だし、強く在れるから」



 彼女は言い乍ら、風に煽られたペラペラの紙のように、不気味に曲がった体勢で付き纏ってきた。

 まるで質量を持たないかのように、宙に揺蕩いながら、である。


「長い物には巻かれるし、大波には乗っかるし、山風と書いて嵐には身を任せる。あたし、そういう女なの」


 振り向きざま、筆箱を投げてやる。

 命中コースであった筈だが、消えた蝋燭から昇る煙のように、通過の瞬間に身体がひずみ、ゆらりとすり抜けまた戻る。人間の骨格では、関節を外そうと有り得ない変形。一瞬でそれを為し、瞬きで元通り。

 減速の気配無し。幽霊めいて追い縋る。

「あなたも、その方が楽でしょうに……。風の向くままに渡っていくのは、それはそれは心地が良いのに」

 実体が、無いわけではない。

 彼女の方からなら、僕に触れる。

 だったら、何故?

「あれ!何かな!?」

 派手に見せつけた二投目。

 筆箱を投げる前に取り出して、手元に残しておいた消しゴム。“YJB贈り物”を使ってそれに注目させつつ、明後日の方へと放り飛ばす。

 彼女は確かにそれを見て、関心を惹かれていた。陽動は、決まったのだ。

 だけど、何故?

「何だろう、気になる……。でも、まあ、こっちに『流れて』るから、いっか……」

 陽炎のように揺らめいたのは一瞬。方向転換も速度の緩みも無しに、彼女は後を付いて来る。憑いて来る。

「ふぁああわわああ」

 大きな欠伸を一つ。その間も追跡は止まらない。捉えどころが無い、どころの話ではない。不可解。彼女がどういった動きをしているのか、一つも分からないのだ。

 その理解不能が、僕の手足をより不自由に、或いは自由にしてしまう。

 タイルを踏んでいる感触が緩み、大気を裂く感覚が重みを増し、足が動いているのかいないのか実感出来ず、次なる一踏いっとうがどんどん遠くなる。まるで水に満たされた、月の海で走るみたいに。

 

「うわあああああ!」

 僕は逃げた。前も見ず遮二無二駆けた。一定の距離感を開けて貼り付く少女に、不快と不気味を感じてしまう。嫌忌けんきと成ったそれが、僕の背中を何度も突き飛ばす。もうこれ以上の推進力は出ない、そう叫ぶ脳を無視して何度も。

 何も分からない。どういう法に従っているのか、どうして僕を追って来るのか、どうやって攻撃するつもりなのか。

 もし、追いつかれたら?その時の事を想像するだけで、足が竦んで縺れそうになる。

「このおおおおおお!!」

 僕は賭けに出た。この鬼ごっこを続けていても、僕は彼女に勝てそうもない。一旦撒いて、隠れてやり過ごすしかない。

 だから、


       跳んだ。


 階段を少し降り、そこから手摺を乗り越え、落ちた。

 着地。足裏と腰に痛み。足首も良くない捻り方をした。だがこの程度では安心など遠い。

下。

「ぐぅうう!」

 激痛。遅れてじわりと浸透する鈍痛。

 上へ身構える。来ていない。相手が浮遊しているなら、落下の速度で勝負すれば勝てる。重力加速度が味方に付くからだ。

 愚図愚図していられない。更に離すべく廊下を行こうと回れ右して、


「だからあ、痛いのやめましょう?」


 目の前。進もうとした先に彼女が居た。

 進むべきか退しりぞくべきか、一瞬だけ両意見が採用され、僕の身体は制御を離れる。統一されない動きによって、迷い捻じくれ千切れそうになる。もんどり打って肺が叩かれ、涙が滲むほど痺れすさぶ。呼吸すら苦痛となり、思考は敵となった。

 何故。

 一体、何故。

「あたしから逃げられるなんて、思わない方がいいのに」

 するすると、音も無く寄る影。

「来るな」

「偽った希望なんて、苦しいだけなのに」

 お人形遊びみたいに、地を踏まない不自然な歩行。

「やめろ」

「もう遅い。あなたは二度と、安心して眠れはしない」

 暗い通路で、朧気な輪郭が迫り来る。

「いやだ」


 とうとう目前に達した彼女は、幼子を寝かしつけるように、死者を悼んで整えるように、右手でそっと視野を奪う。

 

「あ、あ……」

 

 不随意な左右動が止まず、それが正常な震えを妨げ、喉が言葉を結ばなくなった。せめてもの抵抗にと突き出した、右手で握られた鉛筆が、手からコロリと逃げ出して、カラカラ段を落ちていく。

 これまでか。そう思い目を瞑った。

 

………………

 

 その時が、いつまで待っても来ない。


 そおぅっと、開いていく。遅々としながら、向き合っていく。

 

 彼女は、もう居なかった。


 初めから、全て夢だったかのように、そこには驚くほど何も無かった。


 何処に行った?

 何をしている?

 彼女はどうやって、僕を追跡していた?

 「流される」。何に?

 彼女は寧ろ、流れる側のように見えて——


——ああ、そうか。


 僕は、理解した。


 きっと、そういう原理なんだ。


 とは言え、どうやって倒せばいい?

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