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「内緒にしてくれると、助かる」
聖母を讃える歌を鑑賞しながら、少年は悪戯っぽく笑い、マグカップに口を付けた。
緊張しながらも、鳶羽は相手に合わせた。
「ミラーリング」。動作をなぞる事で、相手への無警戒をアピールしている。聞き齧った心理学なので、本当に有効なのかは5
「神螺君も、こういう不真面目な事するんだ。ちょっと意外だった」
「僕は結構不真面目だよ。自制がきかないって言うか……、『面白そう!』とか『やらなきゃ!』って思ったら走りだしちゃう人間でね」
「これだってそうだ」と、彼は、神螺日向は、右手でその装置を示した。
化学準備室。
生物の気配とは無縁の一室。薬品で清潔に漂白されているよう。だが細かく見れば第一印象とは裏腹に、落とせぬ汚れが点々とこびりついている。物質である限り、完璧に浄いままではいられない、ということだろう。
試験管やフラスコといった、ガラス製実験器具が並ぶ部屋の中に、それは紛れ込まされていた。
丸底フラスコを二つ、それぞれの口同士を繋いで立てたような外観。大きな砂時計にも見えるそれは、サイフォン式のコーヒーメーカーだ。担当教師が備品の中に仕込んでいたらしく、それを発見した神螺は秘密を守る代わりに、自由に利用していい権利を得たと言う。教師にも生徒にも問題アリである。
「サイフォンの法則」。
鳶羽は授業の内容を引き出してみる。
同じ容器を二つ用意する。両方に同じだけ水を入れ、高低差のある場所に置けば、当然ながら水位は合わない。が、それらに管を通してやるとどうか。水は重力で押されている。位置エネルギーが大きい方、つまり高い場所にある側が、より強い力を上から掛けられている。水は強い方から弱い方へ、管を通って流れ込み、これは双方の力が釣り合うまで止まらない。
最終的に、二つの水位は水平に一致する。管が途中で容器二つより高かったり、逆に低い場所を通ったとしても、これは起こる事らしい。
「サイフォン式コーヒーメーカー」とは、この物理現象を利用して、コーヒーを抽出する道具である。この場合は重力ではなく、水蒸気圧を利用していた筈だ。それで作るメリットもあるらしいが、お洒落だから使っているだけだろうと、鳶羽は勝手にそう睨んでいる。水が下から上へ遡る、そんな光景が面白いというのもあるだろう。
「学校で優雅にしばくコーヒーって、どんな味がするんだろうって、気になったら止まらなくなっちゃって」
「バレたのも初めてじゃないし、気を付けないと」、神螺が照れ臭そうに
大概な問題行動であるが、「冷えたアイスを即食べたい」と主張し、小型の冷凍庫を自室に置いている鳶羽では、
「ぷふっ!『しばく』って、いつの時代だし。マジ化石語彙じゃん?」
神螺の横で、飲むでもなくダラけている少女。瀨辺黒湖である。机に上体を無造作に預け、顔の右半分だけ向けて来るその姿は、見ているだけで力を抜き取られかねない。そのくらい深い、脱力ぶりだった。
「でも『しばく』って、ついつい口に出して言いたくならない?今も罵倒とかだと使われるでしょ?『しばき倒すぞ』、みたいな」
「それな~、ワカル~」
——ノータイムで同意するんかい。
さっきまでの主張から、途切れる事なく掌返し。芯となる自分というものを、持っているようにはまるで見えない。それが彼女だった。この怠惰な女がどうして部活動なんて、拘束され努力し磨かれる、そんな環境の一員となったのか。この学校の七不思議の一つと言える…かもしれない。
甘みと苦みがほどよく牽制し合い、舌を愉しませてきたところで、
「それで、今日はどうしたの?僕に聞きたいことって?」
神螺に切り出され、逸れかけていた思考を呼び戻す。砂糖の溶けた
そうだった。今、それなりにピンチであったのだ。
佐布とぶつかった昨日から、鳶羽は「事件」のことを、犯人についてを考えずにはいられなかった。だからこそ、隼人と行動を共にしていた三人について、使命感にも似た興味に駆り立てられている。彼らを逃してはいけない、極端だが、そう思ってしまったのだ。だから一度、勘に従ってみることにした。彼らをとことん知って、その上で判断してみよう、そういう方針を定めたのだった。
そうと決まれば善は急げ。本日6月20日から、早速彼らの動向調査を開始。そしてすぐに動きがあった。あの神螺日向が、目立たぬように気を配りながら、関わりの薄い化学準備室へ、昼食時にそっと忍び入っている。逸った鳶羽は勢い込んで、「現行犯!」と踏み込んだのだが、そこにあったのがデザイン重視のコーヒーメーカー。顔から火が出るレベルの拍子抜けである。
が、ここから先は「恥ずかしい」では済まない。「どうして神螺日向をストーキングしていたのか」、それについての説明が求められるからだ。
鳶羽の中での彼ら三人は、重要参考人クラスの扱いを受けている。が、本人達にそうと伝えるのは、
折角出しかけていた尻尾を、危ぶんで丸められる怖れもあるし、手段を選ばず敵対される危険すらある。彼らと正面切ってやり合えば、冷静に考えれば誰が見ても、鳶羽の方が劣勢だった。
だから彼女は、この場で本当の事を言えない上、無害だと納得して貰わなければならない。酷い勝利条件を強いられたものである。
香り。
小麦を焼いた塊の香りだ。豆を擂り潰した粉の薫りだ。
プラスチックみたいな無機質な匂いを塗り潰し、少しだけ心に猶予を持たせてくれる。
「私、あの、蛇頭君の事を知りたくて……」
即席の判断で、ある程度は正直に話すことにした。受けた神螺は少し意外そうに、
「驚いたね。そういう物騒な話、避けるタイプだと思ってたよ」
これまた正直な感想で応じる。
「正直、苦手。でも、知らない仲じゃない、身近に居る人が、あんな死に方して……。その不安の方が、大きくて」
「そんな気になることぉ?」
「ああ、そうか、そうだよね。明日は我が身でもおかしくない、そう考えて当然だと思う」
「そだね。うん、わかる」
気遣うように、こちらの言い分に寄り添ってきた。今は彼が自然に見せるその優しさすら、計算されたもののように感じてしまう。こちらの懐に潜り込み、腹を鳴らしながら話しているのかと。
「彼、どうしてあんなことに?何か、聞いてないかな?知ってたら、教えて欲しい」
思ったより直截的に切り込むことになったが、理由付けとしては悪くないだろう。クラスメイト、それも決して無縁ではない位置の人間が、特殊な殺され方をして、無関心を装えなくなった。だから、被害者とより近しい人間に、彼が狙われた理由の手懸りを求める。自分がそうじゃないと、安心したいからだ。
我ながら真に迫れていると、鳶羽は内心で自画自賛する。嘘を吐く時の初歩、本当の事を混ぜながら騙るのだ。怪しまれてはいない筈。
ただし、彼らが本当に犯人で、普通以上に疑り深くなっていては、どうか?
「僕は明確な答えを出せないけど、それでも言える事はあるよ」
コーヒーをまた一口、その後一呼吸おいて、
「きっと君は対象外だ」
それは、
「どうしてそんなことが言えるの?」
あなたがやったから?とは言わなかった。
「僕は今回の事を、突発的な、事故に近いものだと考えている。だって、本来凝った殺し方なんて必要ない。本当に人を食べられるなら、まるっと呑み込んでしまった方が良い。証拠も事件現場も残らない。そうはなっていなかったから、偶発が重なって複雑になっただけだと、そう思う。そうだったら、君が深くに関わらなければ、殺しが起きる謂れが無い」
「事故」?
あれを、事故だと称するのか?
「けれど敢えて、計画的犯行と仮定すれば」、そこに意味が有ったとするなら。
「この街でわざわざ、『喰い殺す』理由を考えれば分かる」
神螺は飽くまで理路整然としていた。
「理由、分かるの?」
「『懼れ』を生む」
「それ以外にあるかな」?彼が出して見せた結論。
「誰かを脅かそうと、精神を追い詰めようとしている。僕はそんな悪意を感じるよ」
彼の言い分とは、こうだ。
「ただひと思いに刺し殺すか、そうじゃなければ毒でも盛るか。その方が楽だし確実。証拠も残らない」
その仮定には意味が無い。実際には、そうはなっていなかった。
「聞いた話だけどね。隼人の死体、体中至る所に咬み痕があって、しかも南へ、街の外に続く大通りに遺棄されていたんだって。この殺人の味付けは、何から何まで濃くて派手だよ」
「うぇー。やば。なんでそんなことするん?」
「隼人本人を強く恨んでいた。それが一番分かりやすい。だけどもし、もしそれだけじゃなかったら?隼人の死体がただの道具で、それを使ってやりたい事ってなんだろう?」
一つずつ、理屈を重ねる積木細工。
もしも、「この先」が、「この次」があるのなら——
「『お前もこうなる』、そう宣告してるんなら、それが有効だと言わずにはいられないね。やられた僕らは、ガタガタ震えることしかできない」
落ち着き払いながら、神螺はそう言ってのけた。その余裕が、鳶羽の目には益々怪しく映る。
「そしてこの示威行為の矛先が、どこに向きやすいのかと言えば、それはより近い場所へ、だろうね」
乃ち、殺された人間に近い誰かへ。
すぐ横で談笑していた男が、気が付いた時には餌食となっていた。そんな時に自分の未来を憂慮しない者が、果たしてどれだけ居るのだろう。何処の誰でも、己の頭を思わず庇ってしまうのではないか?すぐ近くまで、魔の手が迫った事実を知って。
そこに生まれる当事者意識、それをこそ欲しがっていたなら?
「無差別の、可能性だって、あるでしょ……?」
「その場合、やった側にとって重要なのは、むしろ『広さ』だね。より広く知れることで、自分の存在がより大きくなる」
「きも。やめて欲しさある」
「相手を選ばず恐慌をばら撒きたい人間が、狭い範囲に固執するとは考えにくい。となれば逆に、もっと離れた場所を選ぶはずだ」
どちらにせよ、鳶羽は「対象外」、そう見るのが自然だ。
「世間的には、隼人は『病死』したことになってる。嘘にしても、もうちょっと良いの無かったのかな?とは思うけど、僕の考えではこれは、犯人の願望に反しようという意図だ。“人喰い”の噂があるこの学校の外では、騒ぎであっても怪奇譚じゃない。『恐慌』の伝播に歯止めがかかった。できるだけ目論見を外れたかったんだろうけど——」
——それで“点火”しないかな?
神螺日向は更に一啜りしながら、最悪の事態を想定する。
わざわざ厭な想像ばかりするのは、恐ろしいから?悲しいから?
それとも、楽しいからだろうか?
「ソレなんなん?『点火』って?」
「破裂しそうなフラストレーションを
すぐに次の“爆発”がある。彼はそう言っているのだ。
「今度はもっと大掛かりになるかも。何しろ、前回発散できなかった分があるから」
これ以上、何があると言うのか?
「ま、何度も言うようだけど、僕はそもそも計算ずくの凶行だと思ってないんだよね」
この男は、何を考えていると言うのか?
分からない。友人が酸鼻を極めるやり方で殺されて、こんなに平然としていられるものか?これ程簡単に、日常へと還れるのか?
鳶羽の中の猜疑心が、すくすく尖っていく。話しているのが、同じ人間でないように思えてしまう。何か全く別の世界観、人生観で——
——そっか。
彼女はふと思い出す。
あの探偵助手は、こういう相手に対しているのだ。
尋常の感性では先読みできない、ズレた所にいる異界人達。彼らの道は鳶羽には見えず、だからその上を歩いただけで、飛躍したように思えてしまう。そういう突拍子も無い軌道を描かれる、それについての心の準備さえあれば、対処の成功率も上がるかもしれない。
彼はきっと、常に構えているのだ。
自分の考えが及ばない。そういった物事が存在することを、承知して埒外に備えているのだ。そうすれば、狼狽える時間は短くなって、後手を取っても致命は避けられる。彼が再び動き始めれば、同じ理論を共有する者達の、戦線復帰も早くなる。“探偵助手”の役割とは、そういったものなのかもしれない。
それにしたって、気付かな過ぎの驚き過ぎ、ということは、脇に置いておくことにした。
その後、幾つかの会話を終えて、鳶羽は化学準備室を出る。
収穫があったような、無かったような、どう取ればいいのか分からない「おい」
息が止まりそうになった。少し止まっていたかもしれない。慌てて飛び退きつつ左側方に旋回すると、
「亜縫、君………」
がっしりとした体躯の少年が、両手をスラックスのポケットに突っ込み、彼女を見下ろすように立っていた。そう言えば、彼ら二人と一緒に居なかった。何処に行ったのかと思っていたが、まさかずっと、ここで立ち聞きしていたのだろうか?
じっとりと肌が汗ばむのに、喉がカラカラに渇いていく。何をしている。何を、する?
不審がる鳶羽に向かって、
「あいつ……、隼人が居なくなったのは、雨の日の夜だった」
亜縫は取り立てて弁明もせず、一方的に言いたいだけを言う。
「そう、だったね…、確か」
どうやって会話を繋いだものか、鳶羽の思案は徒労である。キャッチボールなど、亜縫は
「明日と、明後日の夜。予報じゃ雨だ。気を付けろよ」
それだけ言うと、背を向けて去っていく。
納得させようという気概すら見せない。
今の警句は、字面通り心配からなのか?
それとも、「深入りするな」という、最後通告なのか?
あなたも——
「——」
——気を付けて………!
その日、彼女はそれを思い出しながら、雨でもないのにおっかなびっくり下校した。
その二日後は、報じられていた通り雨天となり、
亜縫狼金が、
姿を消した。
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